適当に随筆

日々の生活で思ったことを適当に書いていきます。

価値観と認識と境界線の個別管理

私の知っている、君の名は、と

 

貴方が知っている、君の名は、は

 

本当に同じ作品なのだろうか。

 

そうです、同じ作品です。

非常に高い確率でそうなる。

君の縄、でない限りは。

 

けれども、感想という意味では全く違う意味になる。

作品を見た結果の感想は大抵の場合違う事が多い。

決定的に違う場合も、そんなでもない場合も多々ある。

 

君の名は、を始めてみた人間と、二回目に見た人間とでは感動が違うように。

 

積み重ねてきた個人の経験と、好みの差。

まあ単純に書くとこのあたりが無難ゾーンだろう。

 

見慣れたものか見慣れていないものか。

 

恋愛系の作品を目にする機会は多々ある。

小説然り、ドラマ然り、アニメ然り、ジブリ然り。

 

そして、大抵の人々はそれらの間に垣根を構築してしまっている。

 

つまり、人間失格と、坊ちゃんは純文学である。

白夜行と、すべてがFになる、はミステリ小説である。

やまとなでしこと、結婚できない男は恋愛ドラマである。

とらドラと、涼宮ハルヒと、新世紀エヴァンゲリオンはオタクアニメである。

ちはやふると、ハチクロと、君へ届けは少女漫画である。

もののけ姫と、耳をすませばと、魔女の宅急便ジブリである。

 

そういう風に境界線を引いて個別管理されている方が非常に多い。

ひじょーに多い。

 

ジャンル分けするとなると恋愛要素のある物語。

そのように分類することが可能であるのに。

元々の作品の分類の元によってまるで別のジャンルの作品のように扱われてしまう。

まあ、小説作品、漫画作品、映像作品とは表現媒体が違うので並列扱いは難しい点があるが。

 

『作品』を評価するにあたって、重要視する点は人によって違う。

 

音楽か、物語性か、演技か、映像技術か、登場人物か、設定関係のディテールか。

 

何処がどのようにすごくて、自分はどの部分に感動したのか。

何処に納得がいって、何処が好きで、どういう理由でこの物語、作品が好きなのか。

もしくは嫌いなのか

それらの集合体で、評価は決定される。

 

評価とは、そういうものだ。

 

小学校の通信簿から、好きなケーキ屋さんの好きなケーキに至るまで。

そんなものだ。

 

だから気にしても仕方ない部分が多々あるのが評価というものだ。

 

けれども、誰もが気にしてしまう。

 

まあ、そんなものだと思います。

 

決めつけても仕方がないし、選ぶのは、見るのも、自分次第です。

あけおめ

年が明けた。

 

何か、毎年激動してる。

ここ数年の間ずっと何らかの形で内面、外面、交友関係、及びそれらを含む色々な所でよく分からない事が起こり続けている。

 

よく分からないものは良く分からないから仕方ないのである。

そういう良く分からない事を考えることに時間を割くぐらいなら、不貞寝でもしていた方が時間効率がいいのである。

 

結局は人間はスキルが全てである。

スキル、教育の結果の技術と言い換えてもいい。

知識の総量。

知識を知恵に変える事。

発想の転換、感覚の安定。

 

階段を行き成り十段飛ばすことは難しいが、一、二段なら何とかなる。

そういう問題。

 

出来るようになるためのちょっとした背伸び。

 

それの繰り返しで人間は先に進んでいく。

 

全ては教育の賜物であるのだ。

 

親からの、親族からの、友人からの、先生からの、上司からの、同僚からの。

 

そうして自分自身への。

 

教育。

 

 

人間の言語機能が一体何の為に存在するのか。

それは意思を疎通するためである。

 

コミュニケーションの為だ。

 

円滑に生活するために人間は言語能力を会得した。

自分の意志と、技術を伝えるために。

より良く生きて行く為に。

 

良くとはなにか。

 

自分が利益を得る為である。

 

一粒でもいいから多くのコメを食べたい。

 

一円でもいいから金が欲しい。

 

モテたい。

 

欲望、煩悩、108個。

 

人間の望みは果てしないものがある。

 

何処に辿り着こうと、先も後も無いのに。

何処かに行こうとする。

 

それは何故なのだろうか。

 

 

成功とは何か、失敗と何か。

何が手元にあれば幸せと呼べるのか。

何が無ければ不幸なのか。

 

キリが無いので話題を変えよう。

 

 

最近は、点が線に、線が面になってきた。

非常に喜ばしいことだ。

立方体にはなっていないが、その内なる事だろう。

 

世界は均一につながっているのだ。

こう書くとただの電波野郎でしかないが事実なので仕方がない。

全て何かによって作られているのだから。

 

モノも人も情報も、料理も酒も音楽も。

技術も知識も知恵さえも。

人種も言語も国家すらも。

 

様々な意味で作られているのだから。

 

継続する情報の連鎖。

 

分かる、理解する、とは、気のせいでなければこういう事なのだろう。

 

 

吐き出さないと、新しいものが詰め込めないので更に吐き出すことにする。  

 

大局を見る目と細部を見る目は恐らく違う目なのだろう。

ナイフとフォークの使い方が違うように。 

戦略と戦術の差。

優秀な兵隊が一人だけいても戦争には勝利できないように。

優秀な兵隊が沢山いても、司令部が機能していなければ戦争には勝利できないように。

全てはバランス。

一点特化型ではいずれ無理が訪れる場合が多々ある。

結局は総合力である。

まあ難しいのだけれども。

 

 そういう訳で、今年もよろしくお願い致します。

大いなる流れに乗る葉っぱ

流れ、だ。

多分全部流れだ。

流れってのは、流れという言い方以外表現の方法がないように感じる。

 

おいしいプリンが出来上がるのは何故かというと。

おいしいプリンのレシピを作る流れを知っている人が、レシピの流れ通りにプリンを作るからおいしいプリンが出来上がるのだ。

 

その程度の流れでしかない。

大いなる流れには逆らえないように。

 

全体的に大いなる流れがあって、その流れに乗る葉っぱが一人一人の人間なのだろう。

 

何か電波な表現しか出来ていないがそのように感じる。

 

その流れの中では基本的に何をするのも自由だ。

けれども自由なだけで、許されたり、認められるには、一定の流れの中で、流れに乗っている必要がある。

 

何でも、その流れが綺麗であれば綺麗であるほどに、人はそれに引き付けられる。

流れとは多分そういうものだ。

 

流れ、何かの流れ、大いなる何かの流れ。

 

人はおそらく大いなる何かの流れに浮かぶ葉っぱの様なものなのだろう。

感覚的な問題

自分は常々感覚的な人間だなあと思う。

 

特に理由を上げろといわれると無理なんだけれども。

 

良く分からないのだけれども。

 

意識の問題と、認知能力の問題。

 

現実の空間認識能力と、感覚の空間認識能力。

 

たとえ手足が増えたとしても、いきなりいつも使っている通り自由には動かせないように。

 

補助輪付きの自転車に乗り始めたばかりの子供がロードレーサーで走れないように。

 

こういうのは結局感覚の問題でしかない。

 

出来るか、出来ないか。

 

練習して慣れていくしかない事もある。

 

階段を登るには一段ずつしか登れないように。

 

感覚的な問題である、そう、感覚的な問題。

 

そうして頭の処理速度、優先順位と関連付け。

 

全ては結局簡単なモノなんだよ、慣れてないから出来ないだけなんだ。

 

慣れればできる、けれども慣れるまでは大変だ。

 

 

慣れるというのは壁を壊すようなものだと思う。

 

壁を壊すと世界が広がる。

 

そうして壊れている壁は、壊したことのある壁は、人によって違うのだ。

 

どの壁が壊れているか、どの壁を壊すべきか、どの壁を優先的に壊すべきか。

 

逆にどの壁を壊さなくていいのか。

 

 

そんな、感覚。

自分の形

自分の形は自分で作るものだ。

去年にも似たような事を書いたが何故か再度書きたくなったので書く。

 

自分の行動の積み重ねが自分を形作っている。

そういうものだ。

昨日の自分の行動が、一昨日の自分の行動が自分を作っている。

 

昨日読んだ漫画が、昨日見たドラマが、昨日見たニュースが自分を作っている。

昨日朝に食べたパンと牛乳が、お昼に食べたランチセットが、夜に食べた唐揚げとフライドポテトとシーザーサラダと焼き鳥五点盛としめ鯖とビール四杯が自分を作っているのだ。

中でも特にしめ鯖が旨かった。

 

これは多分皆、何も意識しないで行っている行為だと思う。

けれども意識して行っている人間も結構な人数いる。

 

普段の言動、歩き方、しぐさ、笑い方。

ありとあらゆる情報で人間は構成されている。

 

表情の話だと、生き方に苦悶が多い生き方だと眉間にしわが寄るし、

笑いが多い生活を送っていると次第に口角が上がってくる、表情筋が自然と鍛えられるからだ。

 

先週やった草野球も、先月走ったマラソン大会も、全部が全部行動の積み重ねという奴である。

 

辛いときに辛いと言えたらいいのは、彼らがきっと辛いと普段から言っていないからなのだろう。

溜息をつくと幸せが逃げるというのも、その延長線上の話だ。

 

全ての行動の積み重ねの上に、現在の自分が立っている。

身長、体重、体系、性格、趣味から仕事に至るまで。

 

もちろん、人間関係諸々含めて。

 

人間は一人だけでは生きていない。

何故なら一人で生まれてきたわけじゃないからだ。

 

 

 

人間の行動には自分の為だけの行動と誰かの為の行動の二種類がある。

 

終電で駅に着き、自宅近くの最寄りのフランチャイズコンビニで並んでいる半額になったお弁当を、死んだような目で選んでいるサラリーマン。

 

夕方六時ごろに近所のスーパーで「今晩、何にしようかなぁ」とお財布の中身と晩御飯のメニューに頭を悩ませながら空のカゴをぶら下げて買い物を楽しんで?いる主婦。

 

前者は自身が生きながらえる為の行為だし、後者は家族の為の行動である。

 

コンテンツの消費もそうだ。

話題の映画、話題の小説、話題のドラマ、話題のアニメ。

物語としてはそれほど褒められた内容でなかったとしても、そのコンテンツを消費することでその話題を使っている会話に入る事が出来る。

会話に入る気さえあればだが。

 

過去の名作は確かに面白いかもしれないが、過去の名作を読んだ人間にしかお話が通用しない。

オマージュやパロディで使われているんだよ、という方向で説明することも可能だが、総合的には話題の使用者の話術のレベルの問題である。

 

全ては密接に関わっている様で、密接に関わっていない。

 

不思議な関係。

 

まあ、なんだってそんなもんだ。

 

それはそうと、と話題は飛ぶが。

最近、感覚がまた変わった。

行動に意識や主体性が表れ始めた。

今までは余りなかったのに、何となくで済んでいたのに。

どうしたいからどうするという方向性が生まれ始めた。

少なくとも仕事では。

行動力というか、意志力?が付いてきた気がする。

 

なんだろうねえ、良く分からないけれども。

 

まあまあ悪いことじゃないので、自分の変化には喜びをもって受け入れよう。

 

ではでは。

世界の形

世界の形は自分で作るものだと思う。

 

だって、自分の形は自分で作るものだから。

 

 

仕事で無理やり性格を変えさせられている。

 

常に笑顔で人当たりのいいお兄さんにさせられている。

 

特に抵抗も反動もないが、時折、何もしたくなくなる。

 

ああ、俺は何をしているんだろうと思いたくなる。

 

昔から何度も何度も、欲しかった世界が目の前にあったとしても、

結局は住み慣れた穴倉が懐かしいものだ。

また戻りたくなってしまう。

 

今まで何の接点もない人間と何かしらの接点を見つけて、会話を一時的に盛り上げ、興味を持ってもらい、商品を買っていただく。

 

客引きからの、販売。

 

待っているだけではお話にならないので。

 

受動的ではない、能動的なお仕事。

 

向いているか向いていないかで言えば、向いているのだろう。

 

出来るか出来ないかで言えば出来るのだろう。

 

そうして俺の仕事ぶりはある程度様になっているらしい。

 

そうして、同僚は「ほかの人は、もっと出来ていますよ」そう言う。

 

只の事実を刻々と告げる。

 

一体、うちの職場は元ニートに何を求めるのか、何処まで求めるのか。

 

最早、元ニートとかいう文言は甘えでしかないような気がしてきた。

 

皆、走っている。

 

遅れないように走っている。

 

何かから遅れないように。

 

 

時間から、空気から、周りの人間から、そして多くの情報から。

 

遅れないように。

 

誰もが出来る限り全力で走っている。

 

生きる、為に。

 

 

今だから思うが、ニートは甘えた結果なのだろう。

自分自身と、見えない周囲に。

 

ATフィールドを形成して、部屋に閉じこもるのは誰しもが出来る自己防衛方法だ。

けれども、グループを作ってペースを維持して走り続けるのは一部の人間しかできない。

 

誰にでもできない事だ。

 

歩くのを止めるとは、そういう行為だ。

 

怠惰を求めることは誰にでもできる。

 

そうしてほとんどの社会は怠惰を許さない。

 

勤勉を求める。

 

当たり前のことだ。

 

誰にでも出来る人間は求められていない。

誰かにしか出来る人間しか求められていない。

 

その誰かに成らなければ成らない。

 

そういう事なのだろう。

 

そういう事なのです。

 

 

そう言えば、しばらく本の整理をしていない。

買った本を本棚に収めていない。

リアルで出来ていないと、多分脳内も同じ状況なのだろう。

 

 

現実と理想は交差する。

 

 

山積みになった本を見てそんな欠片だけカッコいいことを思う。

それが例え自分のデスクの上であったとしても。(笑)

 

そう言えば、お洒落な世界って、何処となくお洒落な理由があるよね。

 

何故かしら。

 

お洒落なお洒落。

 

お洒落がお洒落である理由。

 

色遣いとデザイン。

 

まあまあ、片っ端から追いかけても意味がないので。

 

後にしましょう。

 

ではでは。

また何かが生まれ変わった気がする

比喩的な意味で。

 

世間一般の方々はお盆だ。

だが私にはそんなモノなどなかった。

 

最初はそのことが不満で尚且つキャパがギリギリだったので不安定だったが、終わってみたらいつも通りすっきりしている、明日また好きに一人で過ごしたら、元に戻る事だろう。

 

気が付いたらトーク力が身についていた。

聞く方も話す方も。

意識しないと無理だし、まだ頭が疲れるから頻繁にはしたくないが。

初対面だろうが、ある程度付き合いが長かろうが、会話の糸口を引っ張り出して苦労なく会話できる技術がある程度身に付いた。

仕事だろうが、プライベートだろうが使える技術。

脳内の情報整理と、物理言語化が行われていないので話す方はまだ時間がかかるが、相手の言葉に対応する言葉をリンクさせて発話することに不自由を感じなくなってきた気がする。

つまるところ、自然と言葉が出るようになってきた、昔から文章に触れて文字の意味の反復理解を繰り返してきた成果だろう。

実地訓練の回数もバカにはできないが。

 

話すのが先か、聞くのが先か。

 

乳児幼児の言語の習得順序から考えて、聞くのが先である、話すことは後だ。

音声に意味があることを正確に理解し、反応する。

その行為を正しく行えるようになった後に改めて、自分の音声に意味と価値を付随させる事が出来るのだろう。

まあ、仕方がない、おいおい出来るようになればいい。

 

人間の行動と、時間には限界がある。

一人の人間に出来ることはいくら優秀な人間だといっても限界があるのだ。

効率。

考え始めるとキリがないが、ある程度必要な事のように思う。

仕事の順序、優先順位、必要か不必要か。

一日は二十四時間だし、食事の回数は三回が望ましいし、摂取カロリーも考えた方が健康的だ。

慣れているかどうかと、好みかどうかでまたそれは変わってくる。

 

行動には限界があるし、時間も有限、そう考えると取る行動も選んだ方が望ましい。

 

限られた時の中でどれだけの事が出来るのだろう。

 

何となく思い出した歌詞。

そういやこんな歌あったなあ、と少しだけ頭の隅をかすめた。

多分こういう事の繰り返し。

オタだろうがリア充だろうが、やっていることは基本的に同じ。

違うことは、使っている情報が違うだけ。

歌の種類だったり、ドラマか映画かアニメか漫画か。

基本的な表現をする媒体が違うだけでしかない。

おそらくはそれだけの差しかないのだ。

 

きっと、そうだろうと思いたい。