適当に随筆

日々の生活で思ったことを適当に書いていきます。

流れ、刺さるか刺さらないか。

春には春のモノが食べたい。

夏には夏のモノ。

秋には秋のモノ。

冬には冬のモノ。

 

流れにあった、季節を堪能したい。

押し付けではなるだけ受け身で。

 

イベントを全力で、楽しみたい。

 

飾る日も、飾らない日も。

 

誰かと同じ気持ちへ。

 

同じ場所にいるために。

 

気持ちは繋がります。

 

伝えて、受け取って、理解して、誰かに。

 

そういうものです、一方通行だと、悲しいです。

 

誰かと同じ場所に行くために。

 

今日も明日も、貴方へと。

 

自分だけじゃないから。

 

幸せな貴方に、さらに幸せを届けたいから。

 

 

知ってください、感じてください。

誰でも彼でも。

 

理解とは、そういうものです。

また今度、是非に是非にまた今度。 

怒りと感情とコミュニケーション、そして言葉と行動の意味

前回の記事に関することで久々に怒りという感情が湧いた。

そういえば何かに対して怒りの感情が生じたのは随分と久しぶりではなかろうか。

 

怒り、体の中を突き抜ける何かに対する攻撃的な情動。

そもそも、俺自身、自分の事を穏やかで落ち着いた人間だと思っていたが、そいつはどうも違うようだ。

性格は環境や行動によって変わる、おそらく一定ではない。

 

何故ならば感情は死ぬからだ。

 

最初に、持って生まれた気性というものがある。

次に、環境によって与えられた副次的な性格の変化が存在する。

 

この2つの作用によって性格というのは表現されるように思う。

持って生まれたものは恐らく変える事は出来ない。

 

だが後者はいくらでも変える事が出来る。

無理やり作ることもできるし、無理やり殺すこともできる。

 

強いストレス下に晒され続けると、次第に感情は死んでいく。

徐々に徐々に死んでいく。

存在が無意味になるからだ。

ストレス源に見つからないように、ひっそりと息を殺して、可能な限り楽なように生きる。それが至大目的になるのだ。

その生活内に感情は不要である、基本的にはだが。

ストレスを一番楽に受け入れるには、抵抗しない事が一番だからだ。

だから、受け入れ続けるしかない。

最初は抗う術を考える、けれども、定期的に訪れるストレスに抗う術は確実にない。

それを理解してしまうと、抗う気は全く起こらなくなる。

それと同時に、あらゆる感情が死んでいき、それと同時に向上心も消え去っていく。

 

ただ生きているだけ。

生ける屍。

何故ならば、生きる理由も、死ぬ理由も、もはや存在していないからだ。

死ぬ事が出来ないから、怠惰に生きる。

それが生きている理由になってしまう。

 

だから感情が死ぬ。

気力もなくなる。

 

誰にどう思われようと構わなくなる。

生存欲自体が限りなく薄くなり、生きる事への欲求がほぼなくなる。

だから欲望が消え去ると表現してもいい。

 

その状態を私は『悟り』と呼んでいる。

 

修行僧のそれと限りなく同じだからだ。

 

その状態にまでなってしまうと、他者とのコミュニケーション自体が不要なものになる。

全てを切り捨て自己の保存のみに特化した状態まで辿り着いてしまった人間には、コミュニケーションなど不要なのである。

 

他という0と、自分という1。

そう表現するとわかりやすい。

 

全てのモノが均一にZERO

 

こう書くと少しカッコいいかも知れない。

 

 

基本的にコミュニケーションというものは他人がいて初めて成立するものである。

人の年齢、性別、経歴、人間の上下関係、様々なモノを顧みて、言葉と行動に意味を込め、それをやり取りするのがコミュニケーションである。

それが片一方だとコミュニケーションではなくなる。

 

人間はコミュニケーションをとりながら生きる生き物なので、普通に生きていると色々な面でコミュニケーション能力が上昇していくの普通だが、

人間を止めているとコミュニケーション能力は一切上昇せずに終わる場合が多い。

 

私のように(苦笑)

 

人間の各種能力は使用するたびに磨かれていくものだが、使用していないと一切上昇しない。

 

例えば、

走り方、話し方、身なりの整え方、自分の見せ方、女の子の落とし方、そして言葉の意味の理解力。

 

各種色々。

 

 

言葉の意味には色々あって、前回書いた皮肉もそうだが裏と表があるのです。

人間の各種コミュニケーションは意味のとらえ方によって時折すれ違う事がある。

 

徹夜で話し込んで飲み明かす事だったり。

 

意気投合した後の友愛のハグであったり。

 

男同士だとまあまあよくやると思うが。

女同士でもたまに見かける。

 

それが男女だとあまりない気がする。

むしろ機会は限定される。

 

そうして人間の個体によっても差異はかなり広がる。

慣れているか、慣れていないか。

 

 

やっべー、

落ち込んでる?友達の女の子を励まそうと思って、

徹夜で飲んで、終わったら抱きしめてあげるって、言ったけど

明らかにそういう意味に聞こえるじゃん。

文字通りの意味でしかないのに。

あーあー完全に勘違いされた―。

多分ラインブロックされてるし、どうやって謝ろー。

 

 

みんなも気を付けないとこうなるよ!

言葉は意味をよく考えてから使おうね!

約束だよ!!

言葉と気持ちと意味と記憶力

先日、割と嫌な事があった。

 

会社の割とプライベートな男同士の酒の席で社内のどの女の子がいいかという話になった。

まあ、誰がいい、あの子のどこがいいという話になるわけだが、

その話を酒の席の外に持ち出した馬鹿がいた

 

誰が誰のどこが好き、そういう話をなぜか知らないが外でも話したいのだろう。

下世話な話だと思う。

個人的には別に誰が何処でどのように俺の話をしようが構わないが、

困ったことに好き嫌いの話になると、自然と上下関係が発生することになる。

理由は多種多様だが、少なくとも何かの理由が存在して、それを元に好き嫌いが発生していく。

 

例えば趣味の話だとか、好みの外見とか性格とか行動とか、まあ、色々だ。

 

別に大した事じゃないが、それが女の子の一人の耳に届いてしまったらしい。

 

また聞きのまた聞きだったが、噂として俺の耳に届いた。

 

あの人は、君の事が大して好きじゃないみたいだよ。

 

人の言葉の受け取り方は自由だが、改めて面と向かって言われると少しばかり気落ちするものだ。

チョットだけ好感度ダウン。

嫌いにはならない程度の、好感度ダウン。

多分、ほんの少しだけ嫌われたかもしれない。

 

そのように、言葉には意味がある。

表の意味もあるが、もちろん裏の意味もある、その裏の意味を地味に感じ始めた。

 

皮肉。

 

文字通りだけでは受け取れない言葉。

何度か直接目にしてきたし、浴びたこともある。

例えば、皮肉は挑発の一種である。

かかって来いよ。そういう意味だと受け取れる。

対象となる人にその言葉を言うとそういう意味に受け取られてしまう。

 

身長低い男が彼氏ってありえないよね。

 

そういうセリフを身長低い男が聞くと、勝気な男は確実に腹が立つ。

だったら、認めさせてやるよ、と思うかもしれない。

おとなしい男はそれを認めて受け入れるかもしれないが。

そいうものである。

 

なら、自分が草食系男子だと思っている男に向かって。

私の友達がその友達の草食系男子に脈があると思って、告白したら実は脈なしで振られた。

そういった類の発言をしたら自分が草食系男子思っている男はどう思うのだろうか。

 

私の友達は彼氏が数か月に一回変わって、変わるたびに価値観が広がるし相性のいい悪いが確かめられるから、そういうのいいなあって思うんです。

 

もはや、言葉も返しようがない。

多分同類なのだろう、そういう人だと思わざるおえない。

ケンカを売られたら、買うかどうかは自分次第だ。

そうして、売った方は忘れやすいし、買った方は覚えているものだ。

加害者と被害者。

意味は似ている様で似ていない。

嘘をつく人間は平気で嘘を吐いて、いつか嘘を吐いたことさえ忘れるのだ。

そうして、真面目な顔をして私は正直者です、悪くないんです、とそうのたまう。

 

事実は面白いものだ。

一方が忘却の彼方にあったとしても。

片方では静かに燃えていたりするのだから。

 

そうして世界は回っていく。

 

加害者と被害者を量産しながら。

 

草葉の陰で、誰かはきっと覚えているよ。

 

人を殴っていいのは、殴られる覚悟のある奴だけなんだよ。

 

殴られたくないなら、殴るんじゃない。

 

心に刻め。

体に刻め。

だから偶には殴り返す。

自分の為、他人の為、そして自分と誰かの為

頭の使い方を切り替えて行かないといけなくなってきた。

自分の為だったら非常に生きやすいし過ごし易い。

自分の事だけ考えて、自分だけが過ごしやすい様に。

 

けれども、他人と生きるためと考えるならば、他人も生きやすくするしかないのだ。

 

他人の為に。

見知らぬ他人の為に。

誰かの為に。

 

出来ている人間と出来ていない人間がいる。

 

自分の為と、

誰かの為。

そして、自分と誰かの為。

 

昔から少しずつ考えていた。

一体何が違うのだろうかと。

 

自分で使うか、

押し付けるか、

差し出すかの違いなのだろう。

 

自分で使うだけなら自由だ。

けれども押し付けられると無理矢理だから嫌になる。

だけども差し出されると拒否権が存在するのだ。

 

恐らくはその違い。

 

普通に使うか、

受け取るだけか、

貰いに行くか。

 

形は色々存在するけれども。

 

貴方は誰かのことを考えていますか。

自分だけなら大丈夫です。

誰かを考えないで押し付けていないですか。

誰かを考えて渡してあげていますか。

私は少し前まで押し付けていました。

 

学生が下駄箱に手紙を入れて校舎裏に呼び出して想いを告げるのは、殆どの場合が押し付けなのだろう。

 

自分の使い方は別にいい。

誰かへの押し付け方、そして、誰かへの差し出し方。

 

さり気なさ。

ふとしたさり気なさと、気遣いと、強引ではない優しさ。

 

 

誰かの誰かへ、まで考えると更に世界が広がります。

 

誰かの誰かへ。

誰かと、誰かの誰かが幸せでありますように。

 

頭を捻れば出るものだね。

 

少しスッキリした。

大切

少し前に、とある人に、大切だ、と言った事がある。

形容するにあたってその表現が適切だと思ったからだ。

 

好きでも、愛でもない、第三の好意の表現。

 

口にするまで存在すらしなかった第三の感覚。

 

幸せになって欲しい、という単純な気持ち。

 

その人は本当に色々なものをくれた。

 

主に経験と知識を、後少量の自信。

 

俺を育ててくれたといっても過言ではない。

 

何があってそんな奇特な行為をしたのかは知らないが、本当に感謝している。

 

だから、大切と表現するのが適切だと思う。

 

俺が、今の俺になる為に必要だった存在。

 

そういう人が思い返すと何人かいたことに気がついた。

 

気持ちは最初からあるものじゃなくて、生まれるものなんだね。

 

これからも、貴方達の人生に幸が多くありますように。

 

ありがとう、大切な人。

価値観と認識と境界線の個別管理

私の知っている、君の名は、と

 

貴方が知っている、君の名は、は

 

本当に同じ作品なのだろうか。

 

そうです、同じ作品です。

非常に高い確率でそうなる。

君の縄、でない限りは。

 

けれども、感想という意味では全く違う意味になる。

作品を見た結果の感想は大抵の場合違う事が多い。

決定的に違う場合も、そんなでもない場合も多々ある。

 

君の名は、を始めてみた人間と、二回目に見た人間とでは感動が違うように。

 

積み重ねてきた個人の経験と、好みの差。

まあ単純に書くとこのあたりが無難ゾーンだろう。

 

見慣れたものか見慣れていないものか。

 

恋愛系の作品を目にする機会は多々ある。

小説然り、ドラマ然り、アニメ然り、ジブリ然り。

 

そして、大抵の人々はそれらの間に垣根を構築してしまっている。

 

つまり、人間失格と、坊ちゃんは純文学である。

白夜行と、すべてがFになる、はミステリ小説である。

やまとなでしこと、結婚できない男は恋愛ドラマである。

とらドラと、涼宮ハルヒと、新世紀エヴァンゲリオンはオタクアニメである。

ちはやふると、ハチクロと、君へ届けは少女漫画である。

もののけ姫と、耳をすませばと、魔女の宅急便ジブリである。

 

そういう風に境界線を引いて個別管理されている方が非常に多い。

ひじょーに多い。

 

ジャンル分けするとなると恋愛要素のある物語。

そのように分類することが可能であるのに。

元々の作品の分類の元によってまるで別のジャンルの作品のように扱われてしまう。

まあ、小説作品、漫画作品、映像作品とは表現媒体が違うので並列扱いは難しい点があるが。

 

『作品』を評価するにあたって、重要視する点は人によって違う。

 

音楽か、物語性か、演技か、映像技術か、登場人物か、設定関係のディテールか。

 

何処がどのようにすごくて、自分はどの部分に感動したのか。

何処に納得がいって、何処が好きで、どういう理由でこの物語、作品が好きなのか。

もしくは嫌いなのか

それらの集合体で、評価は決定される。

 

評価とは、そういうものだ。

 

小学校の通信簿から、好きなケーキ屋さんの好きなケーキに至るまで。

そんなものだ。

 

だから気にしても仕方ない部分が多々あるのが評価というものだ。

 

けれども、誰もが気にしてしまう。

 

まあ、そんなものだと思います。

 

決めつけても仕方がないし、選ぶのは、見るのも、自分次第です。

あけおめ

年が明けた。

 

何か、毎年激動してる。

ここ数年の間ずっと何らかの形で内面、外面、交友関係、及びそれらを含む色々な所でよく分からない事が起こり続けている。

 

よく分からないものは良く分からないから仕方ないのである。

そういう良く分からない事を考えることに時間を割くぐらいなら、不貞寝でもしていた方が時間効率がいいのである。

 

結局は人間はスキルが全てである。

スキル、教育の結果の技術と言い換えてもいい。

知識の総量。

知識を知恵に変える事。

発想の転換、感覚の安定。

 

階段を行き成り十段飛ばすことは難しいが、一、二段なら何とかなる。

そういう問題。

 

出来るようになるためのちょっとした背伸び。

 

それの繰り返しで人間は先に進んでいく。

 

全ては教育の賜物であるのだ。

 

親からの、親族からの、友人からの、先生からの、上司からの、同僚からの。

 

そうして自分自身への。

 

教育。

 

 

人間の言語機能が一体何の為に存在するのか。

それは意思を疎通するためである。

 

コミュニケーションの為だ。

 

円滑に生活するために人間は言語能力を会得した。

自分の意志と、技術を伝えるために。

より良く生きて行く為に。

 

良くとはなにか。

 

自分が利益を得る為である。

 

一粒でもいいから多くのコメを食べたい。

 

一円でもいいから金が欲しい。

 

モテたい。

 

欲望、煩悩、108個。

 

人間の望みは果てしないものがある。

 

何処に辿り着こうと、先も後も無いのに。

何処かに行こうとする。

 

それは何故なのだろうか。

 

 

成功とは何か、失敗と何か。

何が手元にあれば幸せと呼べるのか。

何が無ければ不幸なのか。

 

キリが無いので話題を変えよう。

 

 

最近は、点が線に、線が面になってきた。

非常に喜ばしいことだ。

立方体にはなっていないが、その内なる事だろう。

 

世界は均一につながっているのだ。

こう書くとただの電波野郎でしかないが事実なので仕方がない。

全て何かによって作られているのだから。

 

モノも人も情報も、料理も酒も音楽も。

技術も知識も知恵さえも。

人種も言語も国家すらも。

 

様々な意味で作られているのだから。

 

継続する情報の連鎖。

 

分かる、理解する、とは、気のせいでなければこういう事なのだろう。

 

 

吐き出さないと、新しいものが詰め込めないので更に吐き出すことにする。  

 

大局を見る目と細部を見る目は恐らく違う目なのだろう。

ナイフとフォークの使い方が違うように。 

戦略と戦術の差。

優秀な兵隊が一人だけいても戦争には勝利できないように。

優秀な兵隊が沢山いても、司令部が機能していなければ戦争には勝利できないように。

全てはバランス。

一点特化型ではいずれ無理が訪れる場合が多々ある。

結局は総合力である。

まあ難しいのだけれども。

 

 そういう訳で、今年もよろしくお願い致します。