相変わらず、休日には何もしていない。
頭が疲れているので。
生活に刺激が多くなってきた。
いや、正しくは繰り返し行う社会人生活によってもたらされる刺激に頭脳が対応できなくなってきた。
頭が追い付いていない。
色々と、世界や社会に対する理解は日々行いつつ、仕事やら行動によって信頼を得つつ、失言や失敗によってそれを失う行為の繰り返しである。
一日一歩で、終わるころには最終的に一センチばかり進んでいればいい感じだ。
頭が回り口も動くようになったのは良いことだが、その代わりに失言と失敗も増加した。
インプットとアウトプットの同時並行が行えていない。
知っている概念やら、それに近しい新しい概念を使用することには大して苦労もないが。
全く新しく存在すらも知らなかった概念を理解するためには、脳の処理能力を一時的に向上させる必要が出てくる、それを継続させると徐々に処理能力が低下し、最終的には思考そのものが追い付かなくなって頭が痛くなる。
そんな日々の繰り返しだ。
なので最近は休日には何もしていない。
概念に触れることを止めてひたすら思考を休ませている。
自分の居場所を確かめるために。
自分はいったい今どこにいるのだろうかと偶に考えたくなることがある。
土地の名か、心の居場所か、それともこれから向かう場所か。
昔から俺は何もしてこなかった。
言い訳だと思うが、何かできる環境でもなかった、だから腐っていた。
けれども気が付いたら、自然と何かしていた。
言い訳ではないが、特に何も遮るものもなかったから、気が付いたら動いていた。
俺の心の場所は、随分と遠くまで来てしまったような気がする。
住んでいる部屋も、使っているパソコンも、座っているソファーも、目の前の目覚まし時計も、何一つ変わらないというのに。
何が変わったのだろうか、何が変われたのだろうか。
確かに俺は紛れもなく、キモオタニートだった。
けれども今は誰がどう見てもキモオタニートではないようだ。
その違いは一体どこにあるのだろうか。
ただ確かに、確実に言えることは。
一人の力でここまで来たわけじゃない事。
誰かが偶に俺のとなりを歩いて色々教えてくれた事。
実在の人物も、歴史上の人物も、ゲームのキャラクターだって、本当に色々なものを教えてくれた。
人間は一人で生きているんじゃないんだよって。
――多分、ああなってしまったのは、一人で生きようとしたことが原因なのだろう。
それが必要だから、求めるんだ。
そうして、求める事にも限度がある。
ある程度の限度が。
それを理解しないといけない。
壁
人生には壁がある。
幾つも幾つも壁がある。
生まれの壁、環境の壁、友人の壁、学校の壁、運の壁。
自分で選べるものも、選べないものも壁になる、壁になりうる。
自分の進行方向を阻むそれ。
阻む理由はあったりなかったりするけれども。
その壁の、大抵の理由は、自分が足りてなかったからだったりするのだけれども。
壁っていうのは、自分がその壁を超えるに能いしていないから越えられないのが大半だ。
壁を越えられない理由。
分かりますか。
私は分かりません。
越えていない壁の半分ぐらいは越えられない理由を察するぐらいは出来るけれども。
誰でも壁を越えるために頑張っている。
けれども、壁を超えるには、壁の前に立って登ろうと思うだけの覚悟が無ければならない。
そうして登りきるだけのタフネスとガッツが必要だ。
トライアスロンとか言う競技がある。
水泳・自転車・長距離走を文字通りの順番でクリアする競技らしい。
つまるところ、全競技に対してある程度の実力を持っていなければ上位でゴールできないということだ。
何だかんだで実生活も同じだと最近思い始めた。
学業も、人間関係も、仕事も、プライベートの各管理も。
ある程度の技術を習得しないと、先に進めないのだと。
勉強の仕方、友達と仲良くなる方法、抑えるポイント、ストレス管理とモチベーション。
技術は壁だ。
ゲームだと、スキル、そう表現されるが、現実でもあまり変わりはしない。
ゲームの中の決まったルール、すでに決められた何か。
その中でしか選べない選択肢。
ゲームの中だけだと思っていたがどうにも現実はそうじゃないらしい。
アドリブはある程度効かせられるし、はったりも同様。
それにいったいどれだけの効果があるかどうかはやってみなければ分からない。
そうしてそれは日常的に当たり前のように行われているという事。
それが、一つの壁。
最近理解できた、越えられない壁の一つ。
そうして、それらを支えているのは紛れもない経験と実績。
長年積み重ねてきただけの何かだという事。
それを忘れていては、これから先に進めないのです。
モノを見る目
最近、多くの出会いがある。
何か余計増えて来た感が強い。
情報だとか、知識だとか、モノの見方だったりだとか、価値観だとか。
自分の中に今まで存在しなかった感情との出会いも増えて来た。
忙しい、そして時間もない。
だけども、今までの人生の中で一番楽しいかもしれない。
ついこの前、今まで知り合いだったけれどもあまり深く話したことのない人と、1時間近く近所のスーパーで立ち話をする機会があった。
話の内容はご自身のお子さんの教育方針を何となく俺に語ってくれた感じだったが、深く感じ入る言葉ばかりだった。
俺自身の中にも知識としては存在していたけれども、良い感じに引き出しの中を整理して片付けてくれた感があった。
要するに、人が何を考えてそんなことをしているのか分かるようになりなさい。
たったそれだけのことだった。
何を求めていて、何を探していて、何を渡してあげるのが一番いいのか、分かるようになりなさいと。
今の俺が一番、求めてるものだった。
仕事でもプライベートでも。
何故にあの人は俺にそんなことを教えてくれたのだろうか。
赤の他人の俺に。
多分あの人は、それが俺が今求めているのを分かっていてそれを教えてくれたのかもしれない、気のせいかもしれないけれども。
普通、こういう話はあまりする機会はないと思う。何でそんな話が始まったかは忘れたが、以前も何かしら悩んでる事を相談したことがあった。何を話したかは忘れてしまったのだけれども。
多分、こう言うのを愛と呼ぶのだろう。
そう、思う。
相変わらず、よく分からないのだけれども。
鼻から出てる鼻毛が何か気になって仕方がなかったのだけれども。
あの人は話し相手が欲しかっただけかも知れないのだけれども。
俺はあの行為を愛と呼ぶ事にする。
そう、決めた。
ネット上でも御礼言っておきます。
ありがとうございます。
多分、あの人がこの文章を見る機会はないと思うけれども(苦笑)
自己投資
自己投資とは色々な手段がある。
知識だったり経験だったり身なりだったり。
資格も免許も技術も能力も自己投資。
使うものは時間やお金やetc
昔から字や絵から情報を読み取る訓練ばかりしていたから、長期的な知識の整理は得意だった。
整理して自分が使いやすいように並べ直す、自分が使うだけならそうで構わない。
けれども他人に理解出来るようにするなら、他人に一目見て分かりやすく整理して伝えて上げる必要がある。
こういう人間ですよ、と。
こういうお話ですよ、と。
こういう食べ物ですよ、と。
そう言うのも技術なんだと思う。
投資しておかないとゼロのままだから非常に不利になる。
センスやらモノの質はとりあえず置いておいて、無いと困るというものもある。
けれどもある程度進めてくると、センスやら質も必要になって来るのだ。
前々から感じていた事だけれども。
次は何に投資する事になるのやら。
道を作りながら歩くという事。
最近、なんか妙に疲労が早く溜まる気がする。
理由を考えたら題名の理由に辿り着いた。
少し前の感覚だと新しい事ができるようになると、心の中に手が増えている感覚があった。
分からない事が分かるようになるとは多分そういう事なんだろう。
できる事が増えると言うのはそれだけである。
物事のルールを把握してルール守って行動する。
新しいことにチャレンジすると言うのは、自分の内側と外側に新しく道を作るようなものだと思う。
何度か行った行為なら同じ行動を取ればいいだけだが、初めて行う行為には、ある意味の恐怖が伴う。
どうして良いか分からないからだ。
経験と知識の流用が効かない行為。
最近、それが身の回りに多発している気がする。様々な面で。
周辺環境の激変具合と、自分自身の成長具合も含めて、やらなければならない事、出来てなければならない事、知っていなければならない事が余りにも増え過ぎた。
今の所はどうにかこなせていると表現して構わないと思うが、先はどうなるかは分からない。
そして、その裁量は全部自分の肩に乗っている。と言うか相変わらず放り投げられている。
多少の援助は頂けるようになったのは非常に有難いが、物理的にそれを消化する時間が無いのはどうにかしたい。
と言うかスケジュール調整がギリギリになるようにあえてかどうかは分からないが仕事を入れてくれている先輩方にはよく分からない畏怖すら抱ける。
レベルが違うとはおそらくこう言う事だろう。
レベルは大分上がった。
上がっただけで平均からは程遠いけれども。
何処の平均かはあえて言明しない。
総合力も大分ついた、続く文も同様である。
何か最近頭の中がビキビキ言っている気がする。
少し前まではピリピリしてるぐらいだったのだが。
大分来てる気がする、何かが。
何かが直ぐそこ迄、来てる気がする。
愛とか言うよく分からないもの。
最近複数人に、お前には愛が無いと言われる事が多い。
何故だ。
某人に、俺の物言いが乱雑で余り他人の事は考えて居ないのが原因か、と聞いたところ。
そうだ。
と答えが返って来た。
成る程確かにそう言う意味では愛は無い。
確かに無い。
人のことを考えて居る余裕なんぞこの所ほとんどなかった。
己の思う通りに四肢を動かすだけで精一杯だったのだ。
いくつかは他人の事を考えたような気がする行動をとった覚えはある。
だがその行動の底には多分、自分の何処かで他人は嫌だろうと推測したからからに過ぎない。
あくまでも理由は他人では無く自分が主体だった。
思いやり。
あるのだろうか。
何と無くは分かり始めた。
子猫すらも自分を引っ叩く人間を嫌って距離を取る。
そんな事は当たり前だ、だとしたらどうやって子猫を引っ叩かないで言う事を聞かせるのか。
一月前に知り合いの家で、臆病な猫を引っ叩かないで暇つぶしにひたすら撫で回した事がある。
翌週にまた行くと何故かその猫は俺からは逃げ出さなくなって居た。
何故か知らないが俺の手の届く所に小さく座り込んで居た。
仕方がないのでまた撫で回してやった。
小一時間ほど撫で回して居たら、ふう!と噛み付いて逃げて行った。
どうやらやり過ぎたようだ。
息の抜き方が分からない。
最近息の抜き方が分からない。
マジで。
気が付けばジャズを聴きながら業界の専門用語集と、現在の自分の欠点のカバーが可能なビジネス書ばかり読んでいる。
その事に気がつくには、なんかイライラしながらゴールデンウイークの2日目を最近の傾向である、自分の成長に役立つ趣味を終えて暫くしてからの事であった。
趣味を終えてから少し考えた、今日はウォーキングの日であった、テンションは確かに上がったし同時に体力と気力の成長も期待でき、ダイエット効果もある、その上時間は掛かるが金はほぼかからない、その上好きな曲を好きなだけ流しながら歩く事ができる。
我ながら素晴らしい趣味である。
だが、俺自身はこの行為を純粋に、心から何の一点の曇りもなく、楽しんで行っているのか?
そう考えると疑問符しか浮かび上がらない。
いつから俺は楽しむことを忘れているんだろうか。
いつから俺は息を抜けなくなってしまったのだろうか。
数年ぐらい前の酒に溺れながら、パソコンの前で好きなエロゲや、漫画や、再び観始めたアニメの情報を調べたり、実際に楽しんでいた時の方が気は楽だった、そして圧倒的に楽しかったように思える。
いや楽しさは同じだ、唯、楽しさのベクトルは180度ぐらい違う、そう思う。
何が違うのか。
恐らく、成長に効率を求めるようになってしまったからだ、そう思う。
効率厨になってしまっていた。
いや違う、地べたを這いずり回るような努力もしつつ最大限の効率を求める唯の成長厨。
今の俺は努力厨と効率厨の掛け持ちなのだ、恐らくは。
毎日を全力で過ごして、全力で成長する為に、気が付いたら休む事なく階段を登り続ける事が当たり前になっていた。
しかも、その事に気が付いて居なかった。
恐らく制御が効かなくなってたのだろう、自分の自分に対する期待値の大きさと、何となく感じる周囲の不安と期待が入り混じったような好奇の視線に。
年が明けた頃から何となくその傾向は見えて居た、けれどもここまで無駄に意識が高くなるとは思いもしなかった。
このままこれを続けてしまうと、多分、自分自身に自分自身が押しつぶされてしまう、そんな気がする。
手を抜ける場所は抜かないと死ぬ。
恐らくは。
だからたまの休暇ぐらいはゆっくりと過ごそうかと思う。
……ゆっくり過ごすって、そういえば何すれば良いんだっけか。
だったらそこから始めよう。
それで良いのだ。