感覚的な問題、気分的なそれ。
だいぶ毒が抜けてきたんだと思う。
この何かよくわからないジャンルの俺のブログを始めてから約三年の月日が経った。
最初の頃は何かよくわからない内容の日記のような、雑記の様なよくわからないものを上げていたが、その傾向は三年たった今現在も全く変わらず、とりあえずこの方向性を変えるつもりもない。
多分、このブログは俺の心の中を整理するために書き始めたものだからだろう。
俺を構成する要素の一つとして『他人にどう思われても構わない』という項目が存在する。
普通の人だと、他人にどう思われているかを結構気にして生きていると思うのだが、俺の場合はそうではない。最近は多少気を使うようにはなったが、根本的には変わらない。
何故、そうなったのか?
世の中を見回してみると、他人にどう思われてもいいという人間は結構居る。
所謂、社会の底辺層の方々だ。
上の方に行けば行く程、他人にどう思われるかを結構重要視して生きている傾向が強い。それは言ってしまえば余裕があるからなのだろう。
生きる事に、命を継続させる事に余裕がある、精神的なストレスも、肉体的なストレスも存在せず、金銭的にも余裕がある。
そうすると、他の人間との比較、どちらが上か、どちらが下か、そういった事に興味がわいてくるのだろう。
だが逆に、社会の底辺層の方々はどうだろうか。
生きる事に、命を継続させる事に余裕がない、精神的なストレスも、肉体的なストレスも存在し、金銭的にも余裕がない。
そうすると、他人とかどうでも良くなって、自分の生存に全力を賭けるしかなくなってくる。
まず、衣食住の確保。
衣はボロでも命には支障が出ない。
飽食の時代であるから、質を求めなければゴミ箱を漁れば期限切れのコンビニ弁当があるかもしれない。
住む場所は、段ボールで作ればいい。
そういう事になってくる。
そこまですれば生きていくには十分なのだ。
けれどもそこまで落ちる前にはある程度の段階が存在する。
ざっくりと書くとするならそりゃあもう、言わずもがなのプライドという奴だ。
どの段階までプライド、自分の誇りを捨て去る事が出来るか。
様々なストレスによってストレス過多な状態になってくると、そこから逃れるために肉体的に、精神的に避難を開始する。
肉体的な痛みだとそれを避けようとする。精神的な痛みも、それを避けようとする。
そうして、それすらも、逃げる事、避ける事すら出来なくなると。
諦めるしかなくなる。
何処かのワンちゃんの実験結果と同じ事が人間にも起こりうるのだ。
いや、起こるのだ。そうしなければ生きていけないから。
諦めてしまうと、定期的に襲い掛かる痛みに耐えなければならなくなるから、次第に徐々に、全てのものがどうでも良くなってくる。
そうして、他の方法で自分を満足させるしか、なくなる。
例えば、飽食で、酒で、女で、ギャンブルで。
どこまで、自分のプライドを高い位置で保てるか。
ある意味、プライドは生存欲求と反する存在なのだろう。
人間は大抵の場合、泥水を啜ってでも生き抜くようにできている。
けれどもそれは自分から望んで飲んでいるわけじゃない。
そうせざる負えないから嫌々飲んでいるんだ。
そうして飲み続けているうちに、味に慣れてしまう。
ああ、これそんなに不味くないや。
そう思い始めるとプライドが一段階低くなる。
妥協、してしまうのだ。
『これでいいか』
そう思うと思ってしまうと、プライドの階段が一段低くなってしまう。
そうして妥協を続けていると、耐え続けていると、慣れてしまうのだろう。
何処かが壊れると書いてもいい。
そうしてその壊れた部分は修復に時間がかかる。
というより時間をかけないと治せない。
元に戻すとはそういう事だ。
人間誰しも恥は掻きたくない、けれども掻き慣れてくると、恥という概念が崩壊してしまう。
それもプライドの階段が一段下がると表現しようと思えばできる。
けれどもある程度の恥をかいて置かないと、失敗経験が積まれないから、そういった意味では度胸が無いと表現できるかもしれない。
色々と難しいもので、色々と難しいのだ。
人間って難しいねえ。