最近の事、適当に随筆
ブログのタイトルを新しくすると共に、最近の適当な事をつらつらと書いていきまする。
今年で三十歳になったわけだけれども、これぐらいの年齢になると同年齢間の経験、立場、様々なモノによって格差とかいう奴が露骨に表れてくるわけです。
まあ、個人的な立場と視点によるものがほとんどで、それが幸せに直結しているかどうかは疑問視しても構わないのだけれども。
個人の資質とか、努力の結果、環境、周囲の人間。
まあ、様々なモノで今現在の自分、すなわち個人としての人間は構築されているわけなんだけれども、それには大抵の場合クラスというか、階級というか、一流だとか二流だとかそういったものが存在する。
上等なものであるか、低質ものであるか、誰にでもできるか、誰にでもできないか。
特別な何かは必要か、知識とか、経験とか、様々なモノが。
あれほど嫌いだった母親が求めていたものが嫌なくらいに理解できてきた。
適当なチャットサイトで出会った女の子が「銀座ですよ、銀座が一流なんですよ」とか言っていた、まあ、結局そういうことになってしまうのだろう。
人間には属性が存在する、町によって、地域によって、県によって、地方によって。
いわゆるアキバ系とかいうのが一番わかりやすいだろう。
あるのかどうかはわからないが、例えば、下北沢、中野、吉祥寺、渋谷、池袋、赤羽、上野、新宿、自由が丘、麻布、などなど。
好きな街によってある種の人間のジャンル分けができるのではないのだろうか。
ある程度好みがうるさい人間になると、自分の好み、趣味の合う合わない何かが地味に自分で理解できるようになるんだろうと思う。
俗にいうサブカル、俗にいう音楽、オタク趣味なんか色々なものを含めましてそう思うようになった。
自分の好きなものを並べてみるとどこかしらの共通点があることに気が付いた。
マンガにしろアニメにしろ、小説にしろ、ドラマにしろ映画にしろ。
和もので、ごちゃごちゃしてなくて、あんまり群れてなくて、汚くなくてキレイ系で、何処かスジが通っていて、雑学なんかが多いと最高で、恋愛ものも割と行けて、最初は不幸でも最後は幸せになって、悪意が嫌いで、可愛いだけの女の子なんかどうでも良くて、日常系でも割と好きで、猫とかたまんなくて、細かくてシンプルな情報が詰まった、そういうものが好きだ、割と好きだ。
多分、そういう人間なんだろう。
自分の思いを自分の気持ちを考えて、好きなものを突き詰めていくと、そう言う好きな街によるジャンル分けになっていくのだろう。
そこまで自分の好みがない少なくともそこまで、こだわりがない人間は一般人。
そういう事になるのだろう、いや断言はしないけれども。
まあ、俺はスポーツやら何かしらの集団への帰属意識がほぼないからこういう事を適当に書きたいだけなのかもしれない。
知らんがな。
合う合わない、というのは友人関係も同じで、なんだかんだで同じようなのとつるむのです。
こっちの日常の話が、あちらにとっての非日常で、あちらの自慢がこちらの普通で、こちらの自慢が雲の上の世界。クソニートだったからわかります。
普通に歩いているだけの女の子がキラキラして見えてたから。
最近、そのキラキラが非常に薄くなってきた。
眩しいものには慣れてしまうし、見慣れてくると普通のものになってしまう。
今はそう、犬も、猫も、男も、女も、大して変わりはしない。
それが好みか、そうではないか。
雰囲気なのかなあ、持っている雰囲気。
雰囲気いい人ってなんか良いよね。
たまには、つれづれと
最近、人間の嫌な部分が目に付くようになってきた。
多分、そうするだけの余裕が出てきたんだろうと思うけれども。
やれやれです。
大抵の人が気持ちを発散できなくて、モヤモヤとした気持ちを抱えて過ごすのだけれども。
一部の層はこうやって何かしらの形にして吐き出すことでストレスを発散するのです。
ある種のオナニーとも言います。
そういう人たちは俺のように心の中に何かしらの理想を抱えているんだと思う。
こうあって欲しいだとか、こうあるべきだとか。
自分の思うどうりに世界があって欲しい。
だから、理想を抱えて溺死する。
自分の心の中を表に出したい人たちは、自分で抱きしめているだけでは物足りないから、何かしらの形で外に吐き出そうとします。
それがいわゆる酒の力であったり、文字の力であったり、歌の力であったりするわけですけれども。
自己愛が強い、そう書いてもいい。
自分が大切なんですよ、皆。
そうして自分を傷つけたくない。
傷つけなくなくて、尚且つ他人に自分を理解して欲しい。
だから、だから何かしらの塊にして外に吐き出します。
固有結界。
最近はそういう便利な言葉が出来ました。
自分の世界の、具現化。
無限の剣製。
昔はそういう概念がなかったから、あらゆる形で自分を表現しようとしました。
それが、宗教であり、絵画であり、彫刻であり。
今に残るありとあらゆる『作品』達なのでしょう。
自分の思いを形にしたい、そうして理解して欲しい。
理解、してほしい。
わかって欲しいんだ、この想いを。
けれども、そんな簡単にこの世界は出来ていない。
だから、古人達は様々な形で、表現しようと努力した。
……明治やら、昭和の文豪が自殺している。
それの良し悪しについてはどうこう言いたくないし、言う事も出来ない。
けれども多分、彼らは、自分の中の世界を全力で抱きしめて。
溺れて死んでしまったんだと思う。
希望を抱いて溺死してしまったんだと思う。
太宰さんとか、三島さんとか、芥川さんとか。
思いが強すぎると、自分ではどうしようも出来なくなる。
それは仕方のないことなのだろうと思う。
だってそうじゃない、誰でも自分の胸の中に起こった気持ちは正しいと信じたいじゃない、
例えそれが、常識的に考えて、間違ったモノだとしても。
灼熱の小早川さん。
久しぶりに気分が乗っているので好きな人について語ってみる。
好きと言っても好きな作者さんというくくりで。
彼の作品は、日常を丁寧に描いた、丁寧な作品が多いと思う。
エロゲにしても、ラノベにしても。
読んだ作品数は……、いくつぐらいだろうか。
家計とクロスチャンネルと、イマ。
ユメミルクスリは企画だけだったような。
最後の戦い、と、衰退しましたは一巻だけ。
小早川さんはさっき読み終わった。
少なくとも、突飛な世界観だとか、キャラ設定だとかそういった作風の方ではない。
十八分割も、英霊も、固有結界も、unlimited blade worksとかも出てこない。
何か妙なこだわりのある銃器説明もないし。
確か、滅多に人死にも出無い、内臓ぐちゃあも無かったし、ヒロインやら女の子が悲惨な目にあうようなこともあまり無かったように思う。
人間関係を丁寧に書いてる人だと思う。
だから好きだ。
人間関係を拒絶していた、している人間にとっては、
実に居心地がいい世界を作ってる人だと思う。
多分、分からない、分かっていない人間を描写するのが上手いんだと思う。
世界から線を引いて距離をとってる人を上手く書いている。
家計も、クロスチャンネルも、最後の戦いも、小早川さんも、
普通の人達から距離を取ってる人たちのことを書いている話だ。
距離をとる理由は様々である。
書くのめんどいから省くがまあ、色々である。
色々あるから、色々あって、色々あるんだ。
それでいい、それでいいんだけれども。
小早川さんが紐ビキニを着た理由やら地鶏をブログに晒し始めた承認欲求やらの説明を詳しくして欲しかった、
いや、いらないんだけれども。
そういう描写を最後に入れたことで、何か特別系だった小早川さんが一気に身近になったような違うような。
匿名でやっている行為と、記名付きでやっている行為。
それの違い。
まあ、誰でもあることなんだろうけれども。
自分が当たり前のようにやっている行為を、
「誰々さんが○○をやっています」
と明記されると何かなんともいえない気持ちになるよね。
そんなこんなで文章化終了。
リア充とかいう人の懐事情。
自分が不幸だと思う人は結構いると思う。
自分も結局はそういう人達の中に含まれる。
けれども、そうしていたら、多分、いつまでも幸せになれない。
幸せな人間って言う奴は、不幸を押しのけてでも幸せになろうとするヤツだ。
だからこそ、きっと足踏みなんかしていないんだろう。
この前リア充を飲みに誘ったら、金がないと断られた。
それを考察すると、いくつか理由が浮かび上がってくる。
一つ、てめえと飲みたくないから断る。
一つ、他に予定がある。
一つ、ガチで金がない。
以上三点思いついた。
俺の場合、断るのはてめえと飲みたくないが択一である。
けれども彼の場合、どうもそうとはいえなくなってくる。
飲みを一次会参加したら大体四千円ぐらいである。
毎週一回、合計月に四回参加したら、一万六千円である。
そうして、月に二回ぐらい、飲み放題込みのカラオケに二回、三時間行ったとしてプラス一万としよう。
そうすると、二万六千円である。
しかも、毎回その通りではないと予想して、プラス四千円と推測して
飲み会代費合計三万とする。
こうまでくるともはや悲劇でしかない。
時間管理、推測、予想。
そんな事などいくらでも出来る、けれども。
相手の懐具合いなどだれも想像はしない。
少なくとも俺は予想しなかった。
……。
頑張れリア充。
きっと君は、今楽しいはずだ、我々と比較して(希望;;
生きる意味
一体何のために俺は生きているのか。
その答は分からない。
いや、分かってはいる、けれども自分がわかっているだけだ。
それは、自分だけの答でしかない。
誰にでも理解できる答、それが必要なんだと思う。
けれども、そう簡単にはそれは用意できない。
今の世界を誰が否定することが出来るのか。
たとえ否定したところで誰が信じるのか。
学習とはなんであるか、人間となんであるか。
生きて、ミルクを飲んで、卵焼きを食べて、パンを食べて。
アイスを食べて、ポテトを食べて、ポップコーンを頬張って。
涙を流しながら何かのために踏ん張って、
それで良い、みんながみんな何かのために頑張っている。
みんな、自分が納得できるだけ頑張っている。
多分、それで十分なんだ。
【最高音質】 世界一泣けるBGM CLANNAD 「願いが叶う場所」 - YouTube
果て。
果て。はて。
終わり。おわり。
普通ならば誰も探そうともしない場所。
探しもしないで存在は知っている場所。
人間とはなんであるのか。
何故生きているのか。
生きる意味はあるのか。
人は形にこだわる、理解できるように、理解しやすいように、その器を探し続ける。
それがカテゴライズであり、分類学であり、博物学であった。
結局、そんなものなど無意味であると言うのに。
分かりやすいものなどない、性格が流れている血の種類で分類できるなどとは只の妄言である。
結局、箱の中の型にはめて「コレはあれなのだ」と納得して安定させたいだけであるのだ。自分自身の心の中を。
わからない、そういうことほど不安なものはない。
私はどういう存在であるのか。
貴方はどういう生き物であるのか。
種類、種族、生態、性別に至るまで。分からないと安心できない。
だからこその、
オカマであり、おなべであり、男の娘であり、男装少女であり、ふたなりであり、やおいであり、百合であり、薔薇でもあり、ゲイであり、レズであり、バイセクシャルでありうる。
形が欲しい。
自分だけではなく、他人と共用できる。形が欲しい。
自分の居場所。
ATフィールドをずっと張っているのは疲れるから。
心安らげる、場所が欲しい。
それを共有できる仲間が欲しい。
友達、そう言い換えてもいい。
人は皆、自分を理解してくれる人間を見つけるために生きている。
そういう風に書くのが一番正しいのかもしれない。
もしも、その相手を見つけることが出来た人がいるのならば、
私は、貴方に、拍手を送ろう。
認知領域、会話と言う事。
人は自分の知っていることしか知らない。
それはとてもとても当たり前の事です。
最近理解したのだけれども、人には
他人に教えることが出来る、のと
他人に伝えることが出来る、のと
自分が知っている、のと
聞いたことがある、のと
全く知らない。
そういう知識の具合があるのです。
会話、とはそれを共通させることで成立する娯楽なのです。
貴方は何を知っている。
私は何を知っている。
だから私と貴方は、近い存在、敵ではないのですよ。
そういうことだと、最近認識できました。
流行のお店、流行の話題、誰かがこうしたどうした。
結局、自分を誰かに伝えたいだけなのです。
そうして、分かって欲しいだけなのです。
それの、連鎖。
だから、だから……
本当に、面倒臭いんだ。
人は分かってほしいことが多すぎる。
それが、うん。
面倒だから終わる。