果て。
果て。はて。
終わり。おわり。
普通ならば誰も探そうともしない場所。
探しもしないで存在は知っている場所。
人間とはなんであるのか。
何故生きているのか。
生きる意味はあるのか。
人は形にこだわる、理解できるように、理解しやすいように、その器を探し続ける。
それがカテゴライズであり、分類学であり、博物学であった。
結局、そんなものなど無意味であると言うのに。
分かりやすいものなどない、性格が流れている血の種類で分類できるなどとは只の妄言である。
結局、箱の中の型にはめて「コレはあれなのだ」と納得して安定させたいだけであるのだ。自分自身の心の中を。
わからない、そういうことほど不安なものはない。
私はどういう存在であるのか。
貴方はどういう生き物であるのか。
種類、種族、生態、性別に至るまで。分からないと安心できない。
だからこその、
オカマであり、おなべであり、男の娘であり、男装少女であり、ふたなりであり、やおいであり、百合であり、薔薇でもあり、ゲイであり、レズであり、バイセクシャルでありうる。
形が欲しい。
自分だけではなく、他人と共用できる。形が欲しい。
自分の居場所。
ATフィールドをずっと張っているのは疲れるから。
心安らげる、場所が欲しい。
それを共有できる仲間が欲しい。
友達、そう言い換えてもいい。
人は皆、自分を理解してくれる人間を見つけるために生きている。
そういう風に書くのが一番正しいのかもしれない。
もしも、その相手を見つけることが出来た人がいるのならば、
私は、貴方に、拍手を送ろう。