適当に随筆

日々の生活で思ったことを適当に書いていきます。

行動の結果、その効果。

思えば何も考えずに、感覚のまま生きてきた人生であった。

なんとなくの延長線上。

思考はしていた、ただし恐れや未知による不安を覆い隠す事限定の思考だった。

好奇心や無配慮による自分の行動の結果に訪れるであろう、効果については思考した事はほぼ無いと断言していいだろう。

俺は僕は、そして私は完全に未熟であったのだ、いや今もそうだ恐らくは。

少し前に、愛とは何かと考える機会があった。

私に取って愛とは、厳しさであり、そしてまたマネーであった。

極めて現実的な愛であった。

だが、別に良い。

大した問題じゃあない。

これからはそれすらも考慮に入れて行動すれば良い。

過ぎた事は仕方がないし、動き始めたものは防ぎようもない。

ただ、自分の思うように生きる為には多少の度量と度胸も必要なのだと、今更ながら意味もなく実感をしてしまうのだ。

いくつかの経験といくつかの観測を元に導き出したこの回答は恐らく今の自分にとって、これからの自分にとって必要なものなのだろう。

偶にはオタクコンテンツについて。

最近、仕事を追いかけたり、追っかけられたりばかりでオタクしてない。

出来てない。

仕事終わって、疲れて家に帰って、半額シールの張られたスーパーの半額弁当と総菜を酒飲みながら食べつつ、タラレバ娘の二週目を見ながら、「うわー俺、全く恋愛してねえ。。。」

とか謎の共感しつつ、そのまま酔いつぶれて寝ている。

 

レベルの上げ方は何となくわかった、けれども生活のバランスがうまくとれていないのだろう。

生活のバランスもそうだが、全体のバランスもよろしくない。

仕事を頼りにして、全体的に総合力を上げられているのはいいが、上がるスピードが速すぎて全体的にコントロールが取れていない。

ハードウェアを凄まじいスピードで買い替えているのに、各種ソフトウェアのアップグレードが追い付いていない感覚。

仕事周辺のソフトウェアのアップグレードはしていかないと文字通りお仕事にならないので優先的にアップグレードしているが、そこから離れる程、プライベート面に近づけば近づくほど管理が追い付いてない。

例えば、人間関係面、お部屋のきちゃなさ、オタク情報の更新、その辺が全然出来ていない。

仕事関係のソフトウェアはプライベート使ってでも更新しないと走る事に付いていく事が出来ない、精神状態の整理整頓と再構築も同様だった。

モチベの上昇は、ウォーキングなりヒトカラなりで底上げが可能なので時間さえ投資してやれば何とかなる。

オタク方面に時間割いてる余裕がない。

 

人生の優先順度的な物がある。

その辺を少し明確化してやる必要がそろそろ出てきた。

適当に並べてみる。

 

仕事、成長、余裕作り、年齢的に恋愛、人間関係、趣味の時間(ウォーキング、ヒトカラ、漫画、エロゲ、音楽、その他)、お部屋の掃除、オタクコンテンツ、ダイエット。

 

優先順度の高い順に並べてみたが、やる事多すぎんな……。

同時に出来ることは限られているし、時間も有限、それでいて、こういった形にまとめる事で思考の整理につながる、マインドマップも併用して。

優先順度つけて、PDCA回して、適度に休憩取りつつ、情報整理して、心も整理して、重要度が低いものはあきらめる必要があるのかもしれない。

何かをするには時間が大切。

仕事も、プライベートも。

 

一時的な楽しさ、それを追いかけ続けるのも大切だけれども、必要な時間を見越して行動する必要があるのかもしれない。

 

かもしれない、ではなく、必要だ。

 

きっとね。

 

時間的な配分の関係で今年の最初の四分の一は状況に流されるだけだった。

流れは一切作れなかった。

仕事でも、お休みも。

多分、自分のスケジュール管理を一切やっていなかったせいだろう。

時間は作るもの、確保するもの。

何の時間だってそれが必要なんだろう。

必要だからこのように書き出して頭の中の整理を行っているのだから、自分の為に。

後、体調管理はしっかり行っておかないと、全体のキャパが落ちる原因になる。

時間は有限なのだから、能力の低下は出来る限り避けた方がいい、たとえ期間限定だとしても。

 

あ、気が付いたらタイトルと全く関係ないこと書いていた。

まあいいか、興味の範囲が広くなってくると、投資する時間が重要になってくる。

多分、無駄にゲームして時間潰すような余裕も、必要なのだろうか……

必要なんだろうね。

何もしないでボーっと時間を過ごす時間がとても素敵な時間であることと同様に。

 

何か本当にごちゃごちゃしてるなあ。

文章も、頭の中も。

まあ、そんなものなのかなあ。

気分的に昨日の続き、ATフィールドの形成と、自己開示、及びストレスによる自己保守機能について。

ATフィールドである。

エヴァンゲリオンの有名な奴である。

ATフィールドは現実世界でも展開しているものだと俺は考えている。

程度の差はあるけれども誰しもが。

誰に何を伝えよう、伝えられた誰かはなんて思うだろう。

人間関係という奴は何だかんだでそれの繰り返しなのだから。

オタクだろうが、サブカルだろうが、リア充だろうが、シモキタだろうが、シブヤだろうが基本的な所は何も変わらない。

 

だって人間だもの。

 

そういう事になる。

 

何が重要で何が大事で、何が好きで何に興味があって、そのやんわりとしたフィーリングで人間という生き物は構成されていると思う。

感性の違い。

主義主張の違い。

 

ATフィールドが強めに展開している人って、大抵が誰かに否定され続けたか、強く怒られ続けられた、そんな人なんだと思います。

心の対人障壁が強めな人って、大抵自信の余り無い人たちばかりだから。

何かに挑戦して成功して、そうして褒めてもらって自信というものは成長していきます。

自信を手に入れる前に、何かに折られて、現実と戦えなくなった人々。

もしくは、楽しい何かを見つけ出す事が出来なくて、部屋の中に籠る事しかできなかった人々。

さらに言うと、自己主張強めでオラついてて派手な格好でその辺歩いてる人々もある意味だと同類項なのかなあと最近になって思うようになった。

つまるところ、誰もがある意味見栄を張る事はあると思いますが、ある程度自分に自信があると威嚇なんてしようとすら思いませんが、自信が無い場合はある程度見た目で補ってやる必要があるのかなあと何となく、警戒色ってあるじゃないですか、そういう意味で。

ヤンキーやギャルとかそういう生き物に実際に接してみると、見た目と違って、実は優しかったとか、そう意味なのかなあと思う。

 

会話テクの一つとして自己開示がどうたらこうたらというものがある。

オタク的にいうのであればオタ知識によるマウンティング?知識自慢?

そう言う知識を共通項として持っていると非常に面白い時間が過ぎていくが、持っていないとただの自慢話になってしまうアレである。

簡単な所から難しい所に踏み込んでいく。

天気、仕事、食事、ドラマ、旅行、音楽、漫画、アニメ、ゲーム、エロゲ

話しやすい準に適当に並べてみたがこんなもんだろうか。

浅い所から深い所に。

お互いの腹の中を探りつつ、適当な所で握手をする。

そんな感じの気持ちがいいような気持ちが悪いような、そんな時間。

あの人はどんな人なんだろうという単純な興味。

何が趣味で、休日は何をしていて、食べ物はどんなものが好きで、好きなお酒は何で、どんな本を読んで、誰と仲が良くて。

そんな感じの単純な興味。

 

けれどもあまりに強いストレスが加わる環境に晒され続けると、そんな感じの単純な興味の枠が狭まっていき、視野と視点が非常に狭くなっていく。

単純に書くと、自分があまりにも大切になってくるから、他人なんかどうでもよくなってくるのだ。

たとえ相手が女の子だとしても、興味ないと断定する。

さらに書くと、女の子もこちらに何か興味持たないだろう、と断定してしまう。

そんなこんなで何度か逃がしちゃったなチクショー!!!

と今になって愚痴ってみる。。。

まあ、ごく普通の一般ピープルさん達はそれほど強いストレス下に大抵の場合晒されていないので、大抵の人は思考がそこまで複雑化していないのです。

だって、ねえ、ストレスないと、愚痴る必要もないし、何かに怒る必要もないのです。適当にテレビ見て、飼ってる猫とか、友達のバカとか、先輩の愚痴とか、私の方が可愛いとか、あいつ性格悪くない?とか、ひたすらそういう話をしていれば退屈しないで済むのです。

マイナスな感情って何かに対する不満から発生するものだから、お金とか、人間関係とか、愛とか、自由とか、幸せとか。

満ち足りていれば、自分が自分に満足だよって言ってあげれれば、マイナスな感情なんて発生しないのです。

 

その為の言葉なんだから。

使わないと損だと思います。

 

 

 

本日は三本立てでお送りいたしました。

ではでは。

感覚的な問題、気分的なそれ。

だいぶ毒が抜けてきたんだと思う。

この何かよくわからないジャンルの俺のブログを始めてから約三年の月日が経った。

最初の頃は何かよくわからない内容の日記のような、雑記の様なよくわからないものを上げていたが、その傾向は三年たった今現在も全く変わらず、とりあえずこの方向性を変えるつもりもない。

多分、このブログは俺の心の中を整理するために書き始めたものだからだろう。

 

俺を構成する要素の一つとして『他人にどう思われても構わない』という項目が存在する。

 

普通の人だと、他人にどう思われているかを結構気にして生きていると思うのだが、俺の場合はそうではない。最近は多少気を使うようにはなったが、根本的には変わらない。

 

何故、そうなったのか?

 

世の中を見回してみると、他人にどう思われてもいいという人間は結構居る。

所謂、社会の底辺層の方々だ。

上の方に行けば行く程、他人にどう思われるかを結構重要視して生きている傾向が強い。それは言ってしまえば余裕があるからなのだろう。

生きる事に、命を継続させる事に余裕がある、精神的なストレスも、肉体的なストレスも存在せず、金銭的にも余裕がある。

そうすると、他の人間との比較、どちらが上か、どちらが下か、そういった事に興味がわいてくるのだろう。

 

だが逆に、社会の底辺層の方々はどうだろうか。

生きる事に、命を継続させる事に余裕がない、精神的なストレスも、肉体的なストレスも存在し、金銭的にも余裕がない。

そうすると、他人とかどうでも良くなって、自分の生存に全力を賭けるしかなくなってくる。

まず、衣食住の確保。

衣はボロでも命には支障が出ない。

飽食の時代であるから、質を求めなければゴミ箱を漁れば期限切れのコンビニ弁当があるかもしれない。

住む場所は、段ボールで作ればいい。

そういう事になってくる。

そこまですれば生きていくには十分なのだ。

 

けれどもそこまで落ちる前にはある程度の段階が存在する。

ざっくりと書くとするならそりゃあもう、言わずもがなのプライドという奴だ。

どの段階までプライド、自分の誇りを捨て去る事が出来るか。

様々なストレスによってストレス過多な状態になってくると、そこから逃れるために肉体的に、精神的に避難を開始する。

肉体的な痛みだとそれを避けようとする。精神的な痛みも、それを避けようとする。

そうして、それすらも、逃げる事、避ける事すら出来なくなると。

諦めるしかなくなる。

何処かのワンちゃんの実験結果と同じ事が人間にも起こりうるのだ。

いや、起こるのだ。そうしなければ生きていけないから。

 

諦めてしまうと、定期的に襲い掛かる痛みに耐えなければならなくなるから、次第に徐々に、全てのものがどうでも良くなってくる。

そうして、他の方法で自分を満足させるしか、なくなる。

例えば、飽食で、酒で、女で、ギャンブルで。

 

どこまで、自分のプライドを高い位置で保てるか。

ある意味、プライドは生存欲求と反する存在なのだろう。

人間は大抵の場合、泥水を啜ってでも生き抜くようにできている。

けれどもそれは自分から望んで飲んでいるわけじゃない。

そうせざる負えないから嫌々飲んでいるんだ。

そうして飲み続けているうちに、味に慣れてしまう。

ああ、これそんなに不味くないや。

そう思い始めるとプライドが一段階低くなる。

妥協、してしまうのだ。

『これでいいか』

そう思うと思ってしまうと、プライドの階段が一段低くなってしまう。

そうして妥協を続けていると、耐え続けていると、慣れてしまうのだろう。

何処かが壊れると書いてもいい。

そうしてその壊れた部分は修復に時間がかかる。

というより時間をかけないと治せない。

元に戻すとはそういう事だ。

 

人間誰しも恥は掻きたくない、けれども掻き慣れてくると、恥という概念が崩壊してしまう。

それもプライドの階段が一段下がると表現しようと思えばできる。

けれどもある程度の恥をかいて置かないと、失敗経験が積まれないから、そういった意味では度胸が無いと表現できるかもしれない。

色々と難しいもので、色々と難しいのだ。

 

人間って難しいねえ。

心には振り子がある。

年末の最繁期になったので、古巣に帰ることができた。

一番の古巣に。

最初の職場へ。

 

最初はつらくて辛くてたまらなかった職場へ。

このブログを開始すらしていない、ある意味の俺の原点。

ああ、あの頃は、仕事が終わっても体がもたなくて毎日三十分休憩して家に帰っていたっけ。

 

……そんな場所だった。

……多分、ここから始まった。

……全てはここから始まった。

 

――全ての起点、俺の色々とあった社会人人生の本当の始まり。

 

キモオタニートのスタート地点。

そんな場所、そんな場所で今働いている。

 

……思い返すと、色々なことがあった、本当に色々な事が。

 

……詳細は省略しよう。

 

人は、色々な事を考える。

そうして色々な事を思う。

 

だから色々な行動をして。

自分の気持ちを形にしたがる。

色々な形で。

 

言葉で、行動で、歌で、気持ちで、絵で、動きで、なんややらで。

 

 

……多分、心には振り子がある。

 

ゆっくりと、右と左に揺れ続ける、目に見えない振り子が。

縦と前後、360度より広く、ある程度の空間を自由に動ける振り子が。

地球時計?よくわからないがそれかもしれない。

 

それがやっと、一定のリズムで動き始めた気がする。

俺にとっての最適のリズムで。

俺の時が、俺の中の時計が初めて動き始めた、自分で自分のゼンマイを巻いたその場所で。

 

巻きますか、巻きませんか。

 

何処かで、聞いた言葉。

 

だから、俺は何度でもゼンマイを巻こう。

自分自身のために、自分自身のゼンマイを。

 

少しでも、先に進むために。

歩くのを止めてしまっては、あの時、あの場所ですべてに絶望した意味がなくなってしまうから。

 

パンドラの箱の底には、あの時、確かに希望があったから。

 

 

言葉には意味がある。

それはとてもとても当たり前の事。

そうして、裏に意味があるというのも極々最近理解できた。

 

文字だけの情報には限度がある。

 

結局は一時限的なものなのだろう。

 

誰が何をどの時間帯でどのように言ったか。

 

英語のなにがしによく似ているが、

多分この方程式に当てはめて考えてみると、よく、理解ができるものがいくらでもあるのだろう。

さらに細分化して、言葉の背景をより深く考察することもできるがあまりお勧めはしない。何故ならばあまり意味がないから。

 

つらつらつらと、情報整理終了?

後は形に出すだけだ。

最近の事、適当に随筆

 ブログのタイトルを新しくすると共に、最近の適当な事をつらつらと書いていきまする。

 

今年で三十歳になったわけだけれども、これぐらいの年齢になると同年齢間の経験、立場、様々なモノによって格差とかいう奴が露骨に表れてくるわけです。

まあ、個人的な立場と視点によるものがほとんどで、それが幸せに直結しているかどうかは疑問視しても構わないのだけれども。

個人の資質とか、努力の結果、環境、周囲の人間。

まあ、様々なモノで今現在の自分、すなわち個人としての人間は構築されているわけなんだけれども、それには大抵の場合クラスというか、階級というか、一流だとか二流だとかそういったものが存在する。

上等なものであるか、低質ものであるか、誰にでもできるか、誰にでもできないか。

特別な何かは必要か、知識とか、経験とか、様々なモノが。

 

あれほど嫌いだった母親が求めていたものが嫌なくらいに理解できてきた。

適当なチャットサイトで出会った女の子が「銀座ですよ、銀座が一流なんですよ」とか言っていた、まあ、結局そういうことになってしまうのだろう。

 

人間には属性が存在する、町によって、地域によって、県によって、地方によって。

いわゆるアキバ系とかいうのが一番わかりやすいだろう。

あるのかどうかはわからないが、例えば、下北沢、中野、吉祥寺、渋谷、池袋、赤羽、上野、新宿、自由が丘、麻布、などなど。

好きな街によってある種の人間のジャンル分けができるのではないのだろうか。

 

ある程度好みがうるさい人間になると、自分の好み、趣味の合う合わない何かが地味に自分で理解できるようになるんだろうと思う。

俗にいうサブカル、俗にいう音楽、オタク趣味なんか色々なものを含めましてそう思うようになった。

 

自分の好きなものを並べてみるとどこかしらの共通点があることに気が付いた。

マンガにしろアニメにしろ、小説にしろ、ドラマにしろ映画にしろ。

 

和もので、ごちゃごちゃしてなくて、あんまり群れてなくて、汚くなくてキレイ系で、何処かスジが通っていて、雑学なんかが多いと最高で、恋愛ものも割と行けて、最初は不幸でも最後は幸せになって、悪意が嫌いで、可愛いだけの女の子なんかどうでも良くて、日常系でも割と好きで、猫とかたまんなくて、細かくてシンプルな情報が詰まった、そういうものが好きだ、割と好きだ。

 

多分、そういう人間なんだろう。

自分の思いを自分の気持ちを考えて、好きなものを突き詰めていくと、そう言う好きな街によるジャンル分けになっていくのだろう。

そこまで自分の好みがない少なくともそこまで、こだわりがない人間は一般人。

そういう事になるのだろう、いや断言はしないけれども。

まあ、俺はスポーツやら何かしらの集団への帰属意識がほぼないからこういう事を適当に書きたいだけなのかもしれない。

知らんがな。

 

合う合わない、というのは友人関係も同じで、なんだかんだで同じようなのとつるむのです。

こっちの日常の話が、あちらにとっての非日常で、あちらの自慢がこちらの普通で、こちらの自慢が雲の上の世界。クソニートだったからわかります。

 

普通に歩いているだけの女の子がキラキラして見えてたから。

最近、そのキラキラが非常に薄くなってきた。

眩しいものには慣れてしまうし、見慣れてくると普通のものになってしまう。

今はそう、犬も、猫も、男も、女も、大して変わりはしない。

それが好みか、そうではないか。

雰囲気なのかなあ、持っている雰囲気。

雰囲気いい人ってなんか良いよね。

たまには、つれづれと

最近、人間の嫌な部分が目に付くようになってきた。

多分、そうするだけの余裕が出てきたんだろうと思うけれども。

 

やれやれです。

 

大抵の人が気持ちを発散できなくて、モヤモヤとした気持ちを抱えて過ごすのだけれども。

一部の層はこうやって何かしらの形にして吐き出すことでストレスを発散するのです。

 

ある種のオナニーとも言います。

 

そういう人たちは俺のように心の中に何かしらの理想を抱えているんだと思う。

こうあって欲しいだとか、こうあるべきだとか。

自分の思うどうりに世界があって欲しい。

 

だから、理想を抱えて溺死する。

 

自分の心の中を表に出したい人たちは、自分で抱きしめているだけでは物足りないから、何かしらの形で外に吐き出そうとします。

それがいわゆる酒の力であったり、文字の力であったり、歌の力であったりするわけですけれども。

 

自己愛が強い、そう書いてもいい。

 

自分が大切なんですよ、皆。

そうして自分を傷つけたくない。

傷つけなくなくて、尚且つ他人に自分を理解して欲しい。

だから、だから何かしらの塊にして外に吐き出します。

 

固有結界。

 

最近はそういう便利な言葉が出来ました。

 

 

自分の世界の、具現化。

無限の剣製。

unlimited blade works

 

昔はそういう概念がなかったから、あらゆる形で自分を表現しようとしました。

それが、宗教であり、絵画であり、彫刻であり。

今に残るありとあらゆる『作品』達なのでしょう。

 

自分の思いを形にしたい、そうして理解して欲しい。

理解、してほしい。

わかって欲しいんだ、この想いを。

 

けれども、そんな簡単にこの世界は出来ていない。

だから、古人達は様々な形で、表現しようと努力した。

 

……明治やら、昭和の文豪が自殺している。

それの良し悪しについてはどうこう言いたくないし、言う事も出来ない。

けれども多分、彼らは、自分の中の世界を全力で抱きしめて。

溺れて死んでしまったんだと思う。

 

希望を抱いて溺死してしまったんだと思う。

太宰さんとか、三島さんとか、芥川さんとか。

 

思いが強すぎると、自分ではどうしようも出来なくなる。

それは仕方のないことなのだろうと思う。

だってそうじゃない、誰でも自分の胸の中に起こった気持ちは正しいと信じたいじゃない、

 

例えそれが、常識的に考えて、間違ったモノだとしても。

 

 


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