流れ、刺さるか刺さらないか。
春には春のモノが食べたい。
夏には夏のモノ。
秋には秋のモノ。
冬には冬のモノ。
流れにあった、季節を堪能したい。
押し付けではなるだけ受け身で。
イベントを全力で、楽しみたい。
飾る日も、飾らない日も。
誰かと同じ気持ちへ。
同じ場所にいるために。
気持ちは繋がります。
伝えて、受け取って、理解して、誰かに。
そういうものです、一方通行だと、悲しいです。
誰かと同じ場所に行くために。
今日も明日も、貴方へと。
自分だけじゃないから。
幸せな貴方に、さらに幸せを届けたいから。
知ってください、感じてください。
誰でも彼でも。
理解とは、そういうものです。
また今度、是非に是非にまた今度。
大いなる流れに乗る葉っぱ
流れ、だ。
多分全部流れだ。
流れってのは、流れという言い方以外表現の方法がないように感じる。
おいしいプリンが出来上がるのは何故かというと。
おいしいプリンのレシピを作る流れを知っている人が、レシピの流れ通りにプリンを作るからおいしいプリンが出来上がるのだ。
その程度の流れでしかない。
大いなる流れには逆らえないように。
全体的に大いなる流れがあって、その流れに乗る葉っぱが一人一人の人間なのだろう。
何か電波な表現しか出来ていないがそのように感じる。
その流れの中では基本的に何をするのも自由だ。
けれども自由なだけで、許されたり、認められるには、一定の流れの中で、流れに乗っている必要がある。
何でも、その流れが綺麗であれば綺麗であるほどに、人はそれに引き付けられる。
流れとは多分そういうものだ。
流れ、何かの流れ、大いなる何かの流れ。
人はおそらく大いなる何かの流れに浮かぶ葉っぱの様なものなのだろう。
感覚的な問題
自分は常々感覚的な人間だなあと思う。
特に理由を上げろといわれると無理なんだけれども。
良く分からないのだけれども。
意識の問題と、認知能力の問題。
現実の空間認識能力と、感覚の空間認識能力。
たとえ手足が増えたとしても、いきなりいつも使っている通り自由には動かせないように。
補助輪付きの自転車に乗り始めたばかりの子供がロードレーサーで走れないように。
こういうのは結局感覚の問題でしかない。
出来るか、出来ないか。
練習して慣れていくしかない事もある。
階段を登るには一段ずつしか登れないように。
感覚的な問題である、そう、感覚的な問題。
そうして頭の処理速度、優先順位と関連付け。
全ては結局簡単なモノなんだよ、慣れてないから出来ないだけなんだ。
慣れればできる、けれども慣れるまでは大変だ。
慣れるというのは壁を壊すようなものだと思う。
壁を壊すと世界が広がる。
そうして壊れている壁は、壊したことのある壁は、人によって違うのだ。
どの壁が壊れているか、どの壁を壊すべきか、どの壁を優先的に壊すべきか。
逆にどの壁を壊さなくていいのか。
そんな、感覚。
また何かが生まれ変わった気がする
比喩的な意味で。
世間一般の方々はお盆だ。
だが私にはそんなモノなどなかった。
最初はそのことが不満で尚且つキャパがギリギリだったので不安定だったが、終わってみたらいつも通りすっきりしている、明日また好きに一人で過ごしたら、元に戻る事だろう。
気が付いたらトーク力が身についていた。
聞く方も話す方も。
意識しないと無理だし、まだ頭が疲れるから頻繁にはしたくないが。
初対面だろうが、ある程度付き合いが長かろうが、会話の糸口を引っ張り出して苦労なく会話できる技術がある程度身に付いた。
仕事だろうが、プライベートだろうが使える技術。
脳内の情報整理と、物理言語化が行われていないので話す方はまだ時間がかかるが、相手の言葉に対応する言葉をリンクさせて発話することに不自由を感じなくなってきた気がする。
つまるところ、自然と言葉が出るようになってきた、昔から文章に触れて文字の意味の反復理解を繰り返してきた成果だろう。
実地訓練の回数もバカにはできないが。
話すのが先か、聞くのが先か。
乳児幼児の言語の習得順序から考えて、聞くのが先である、話すことは後だ。
音声に意味があることを正確に理解し、反応する。
その行為を正しく行えるようになった後に改めて、自分の音声に意味と価値を付随させる事が出来るのだろう。
まあ、仕方がない、おいおい出来るようになればいい。
人間の行動と、時間には限界がある。
一人の人間に出来ることはいくら優秀な人間だといっても限界があるのだ。
効率。
考え始めるとキリがないが、ある程度必要な事のように思う。
仕事の順序、優先順位、必要か不必要か。
一日は二十四時間だし、食事の回数は三回が望ましいし、摂取カロリーも考えた方が健康的だ。
慣れているかどうかと、好みかどうかでまたそれは変わってくる。
行動には限界があるし、時間も有限、そう考えると取る行動も選んだ方が望ましい。
限られた時の中でどれだけの事が出来るのだろう。
何となく思い出した歌詞。
そういやこんな歌あったなあ、と少しだけ頭の隅をかすめた。
多分こういう事の繰り返し。
オタだろうがリア充だろうが、やっていることは基本的に同じ。
違うことは、使っている情報が違うだけ。
歌の種類だったり、ドラマか映画かアニメか漫画か。
基本的な表現をする媒体が違うだけでしかない。
おそらくはそれだけの差しかないのだ。
きっと、そうだろうと思いたい。
相変わらず、休日には何もしていない。
頭が疲れているので。
生活に刺激が多くなってきた。
いや、正しくは繰り返し行う社会人生活によってもたらされる刺激に頭脳が対応できなくなってきた。
頭が追い付いていない。
色々と、世界や社会に対する理解は日々行いつつ、仕事やら行動によって信頼を得つつ、失言や失敗によってそれを失う行為の繰り返しである。
一日一歩で、終わるころには最終的に一センチばかり進んでいればいい感じだ。
頭が回り口も動くようになったのは良いことだが、その代わりに失言と失敗も増加した。
インプットとアウトプットの同時並行が行えていない。
知っている概念やら、それに近しい新しい概念を使用することには大して苦労もないが。
全く新しく存在すらも知らなかった概念を理解するためには、脳の処理能力を一時的に向上させる必要が出てくる、それを継続させると徐々に処理能力が低下し、最終的には思考そのものが追い付かなくなって頭が痛くなる。
そんな日々の繰り返しだ。
なので最近は休日には何もしていない。
概念に触れることを止めてひたすら思考を休ませている。
自分の居場所を確かめるために。
自分はいったい今どこにいるのだろうかと偶に考えたくなることがある。
土地の名か、心の居場所か、それともこれから向かう場所か。
昔から俺は何もしてこなかった。
言い訳だと思うが、何かできる環境でもなかった、だから腐っていた。
けれども気が付いたら、自然と何かしていた。
言い訳ではないが、特に何も遮るものもなかったから、気が付いたら動いていた。
俺の心の場所は、随分と遠くまで来てしまったような気がする。
住んでいる部屋も、使っているパソコンも、座っているソファーも、目の前の目覚まし時計も、何一つ変わらないというのに。
何が変わったのだろうか、何が変われたのだろうか。
確かに俺は紛れもなく、キモオタニートだった。
けれども今は誰がどう見てもキモオタニートではないようだ。
その違いは一体どこにあるのだろうか。
ただ確かに、確実に言えることは。
一人の力でここまで来たわけじゃない事。
誰かが偶に俺のとなりを歩いて色々教えてくれた事。
実在の人物も、歴史上の人物も、ゲームのキャラクターだって、本当に色々なものを教えてくれた。
人間は一人で生きているんじゃないんだよって。
――多分、ああなってしまったのは、一人で生きようとしたことが原因なのだろう。
それが必要だから、求めるんだ。
そうして、求める事にも限度がある。
ある程度の限度が。
それを理解しないといけない。
壁
人生には壁がある。
幾つも幾つも壁がある。
生まれの壁、環境の壁、友人の壁、学校の壁、運の壁。
自分で選べるものも、選べないものも壁になる、壁になりうる。
自分の進行方向を阻むそれ。
阻む理由はあったりなかったりするけれども。
その壁の、大抵の理由は、自分が足りてなかったからだったりするのだけれども。
壁っていうのは、自分がその壁を超えるに能いしていないから越えられないのが大半だ。
壁を越えられない理由。
分かりますか。
私は分かりません。
越えていない壁の半分ぐらいは越えられない理由を察するぐらいは出来るけれども。
誰でも壁を越えるために頑張っている。
けれども、壁を超えるには、壁の前に立って登ろうと思うだけの覚悟が無ければならない。
そうして登りきるだけのタフネスとガッツが必要だ。
トライアスロンとか言う競技がある。
水泳・自転車・長距離走を文字通りの順番でクリアする競技らしい。
つまるところ、全競技に対してある程度の実力を持っていなければ上位でゴールできないということだ。
何だかんだで実生活も同じだと最近思い始めた。
学業も、人間関係も、仕事も、プライベートの各管理も。
ある程度の技術を習得しないと、先に進めないのだと。
勉強の仕方、友達と仲良くなる方法、抑えるポイント、ストレス管理とモチベーション。
技術は壁だ。
ゲームだと、スキル、そう表現されるが、現実でもあまり変わりはしない。
ゲームの中の決まったルール、すでに決められた何か。
その中でしか選べない選択肢。
ゲームの中だけだと思っていたがどうにも現実はそうじゃないらしい。
アドリブはある程度効かせられるし、はったりも同様。
それにいったいどれだけの効果があるかどうかはやってみなければ分からない。
そうしてそれは日常的に当たり前のように行われているという事。
それが、一つの壁。
最近理解できた、越えられない壁の一つ。
そうして、それらを支えているのは紛れもない経験と実績。
長年積み重ねてきただけの何かだという事。
それを忘れていては、これから先に進めないのです。
モノを見る目
最近、多くの出会いがある。
何か余計増えて来た感が強い。
情報だとか、知識だとか、モノの見方だったりだとか、価値観だとか。
自分の中に今まで存在しなかった感情との出会いも増えて来た。
忙しい、そして時間もない。
だけども、今までの人生の中で一番楽しいかもしれない。
ついこの前、今まで知り合いだったけれどもあまり深く話したことのない人と、1時間近く近所のスーパーで立ち話をする機会があった。
話の内容はご自身のお子さんの教育方針を何となく俺に語ってくれた感じだったが、深く感じ入る言葉ばかりだった。
俺自身の中にも知識としては存在していたけれども、良い感じに引き出しの中を整理して片付けてくれた感があった。
要するに、人が何を考えてそんなことをしているのか分かるようになりなさい。
たったそれだけのことだった。
何を求めていて、何を探していて、何を渡してあげるのが一番いいのか、分かるようになりなさいと。
今の俺が一番、求めてるものだった。
仕事でもプライベートでも。
何故にあの人は俺にそんなことを教えてくれたのだろうか。
赤の他人の俺に。
多分あの人は、それが俺が今求めているのを分かっていてそれを教えてくれたのかもしれない、気のせいかもしれないけれども。
普通、こういう話はあまりする機会はないと思う。何でそんな話が始まったかは忘れたが、以前も何かしら悩んでる事を相談したことがあった。何を話したかは忘れてしまったのだけれども。
多分、こう言うのを愛と呼ぶのだろう。
そう、思う。
相変わらず、よく分からないのだけれども。
鼻から出てる鼻毛が何か気になって仕方がなかったのだけれども。
あの人は話し相手が欲しかっただけかも知れないのだけれども。
俺はあの行為を愛と呼ぶ事にする。
そう、決めた。
ネット上でも御礼言っておきます。
ありがとうございます。
多分、あの人がこの文章を見る機会はないと思うけれども(苦笑)