適当に随筆

日々の生活で思ったことを適当に書いていきます。

道を作りながら歩くという事。

最近、なんか妙に疲労が早く溜まる気がする。

理由を考えたら題名の理由に辿り着いた。

 

少し前の感覚だと新しい事ができるようになると、心の中に手が増えている感覚があった。

分からない事が分かるようになるとは多分そういう事なんだろう。

できる事が増えると言うのはそれだけである。

物事のルールを把握してルール守って行動する。

 

新しいことにチャレンジすると言うのは、自分の内側と外側に新しく道を作るようなものだと思う。

何度か行った行為なら同じ行動を取ればいいだけだが、初めて行う行為には、ある意味の恐怖が伴う。

どうして良いか分からないからだ。

経験と知識の流用が効かない行為。

最近、それが身の回りに多発している気がする。様々な面で。

 

周辺環境の激変具合と、自分自身の成長具合も含めて、やらなければならない事、出来てなければならない事、知っていなければならない事が余りにも増え過ぎた。

今の所はどうにかこなせていると表現して構わないと思うが、先はどうなるかは分からない。

 

そして、その裁量は全部自分の肩に乗っている。と言うか相変わらず放り投げられている。

多少の援助は頂けるようになったのは非常に有難いが、物理的にそれを消化する時間が無いのはどうにかしたい。

 

と言うかスケジュール調整がギリギリになるようにあえてかどうかは分からないが仕事を入れてくれている先輩方にはよく分からない畏怖すら抱ける。

レベルが違うとはおそらくこう言う事だろう。

 

レベルは大分上がった。

上がっただけで平均からは程遠いけれども。

何処の平均かはあえて言明しない。

総合力も大分ついた、続く文も同様である。

 

 何か最近頭の中がビキビキ言っている気がする。

少し前まではピリピリしてるぐらいだったのだが。

大分来てる気がする、何かが。

 

何かが直ぐそこ迄、来てる気がする。

愛とか言うよく分からないもの。

最近複数人に、お前には愛が無いと言われる事が多い。

何故だ。

某人に、俺の物言いが乱雑で余り他人の事は考えて居ないのが原因か、と聞いたところ。

そうだ。

と答えが返って来た。

成る程確かにそう言う意味では愛は無い。

確かに無い。

人のことを考えて居る余裕なんぞこの所ほとんどなかった。

己の思う通りに四肢を動かすだけで精一杯だったのだ。

いくつかは他人の事を考えたような気がする行動をとった覚えはある。

だがその行動の底には多分、自分の何処かで他人は嫌だろうと推測したからからに過ぎない。

あくまでも理由は他人では無く自分が主体だった。

思いやり。

あるのだろうか。

 

何と無くは分かり始めた。

子猫すらも自分を引っ叩く人間を嫌って距離を取る。

そんな事は当たり前だ、だとしたらどうやって子猫を引っ叩かないで言う事を聞かせるのか。

 

一月前に知り合いの家で、臆病な猫を引っ叩かないで暇つぶしにひたすら撫で回した事がある。

翌週にまた行くと何故かその猫は俺からは逃げ出さなくなって居た。

何故か知らないが俺の手の届く所に小さく座り込んで居た。

仕方がないのでまた撫で回してやった。

小一時間ほど撫で回して居たら、ふう!と噛み付いて逃げて行った。

どうやらやり過ぎたようだ。

息の抜き方が分からない。

最近息の抜き方が分からない。

マジで。

気が付けばジャズを聴きながら業界の専門用語集と、現在の自分の欠点のカバーが可能なビジネス書ばかり読んでいる。

その事に気がつくには、なんかイライラしながらゴールデンウイークの2日目を最近の傾向である、自分の成長に役立つ趣味を終えて暫くしてからの事であった。

趣味を終えてから少し考えた、今日はウォーキングの日であった、テンションは確かに上がったし同時に体力と気力の成長も期待でき、ダイエット効果もある、その上時間は掛かるが金はほぼかからない、その上好きな曲を好きなだけ流しながら歩く事ができる。

我ながら素晴らしい趣味である。

だが、俺自身はこの行為を純粋に、心から何の一点の曇りもなく、楽しんで行っているのか?

 

そう考えると疑問符しか浮かび上がらない。

 

いつから俺は楽しむことを忘れているんだろうか。

いつから俺は息を抜けなくなってしまったのだろうか。

数年ぐらい前の酒に溺れながら、パソコンの前で好きなエロゲや、漫画や、再び観始めたアニメの情報を調べたり、実際に楽しんでいた時の方が気は楽だった、そして圧倒的に楽しかったように思える。

いや楽しさは同じだ、唯、楽しさのベクトルは180度ぐらい違う、そう思う。

 

何が違うのか。

恐らく、成長に効率を求めるようになってしまったからだ、そう思う。

 

効率厨になってしまっていた。

いや違う、地べたを這いずり回るような努力もしつつ最大限の効率を求める唯の成長厨。

今の俺は努力厨と効率厨の掛け持ちなのだ、恐らくは。

 

毎日を全力で過ごして、全力で成長する為に、気が付いたら休む事なく階段を登り続ける事が当たり前になっていた。

 

しかも、その事に気が付いて居なかった。

 

恐らく制御が効かなくなってたのだろう、自分の自分に対する期待値の大きさと、何となく感じる周囲の不安と期待が入り混じったような好奇の視線に。

 

年が明けた頃から何となくその傾向は見えて居た、けれどもここまで無駄に意識が高くなるとは思いもしなかった。

このままこれを続けてしまうと、多分、自分自身に自分自身が押しつぶされてしまう、そんな気がする。

 

手を抜ける場所は抜かないと死ぬ。

恐らくは。

だからたまの休暇ぐらいはゆっくりと過ごそうかと思う。

 

……ゆっくり過ごすって、そういえば何すれば良いんだっけか。

だったらそこから始めよう。

それで良いのだ。

行動の結果、その効果。

思えば何も考えずに、感覚のまま生きてきた人生であった。

なんとなくの延長線上。

思考はしていた、ただし恐れや未知による不安を覆い隠す事限定の思考だった。

好奇心や無配慮による自分の行動の結果に訪れるであろう、効果については思考した事はほぼ無いと断言していいだろう。

俺は僕は、そして私は完全に未熟であったのだ、いや今もそうだ恐らくは。

少し前に、愛とは何かと考える機会があった。

私に取って愛とは、厳しさであり、そしてまたマネーであった。

極めて現実的な愛であった。

だが、別に良い。

大した問題じゃあない。

これからはそれすらも考慮に入れて行動すれば良い。

過ぎた事は仕方がないし、動き始めたものは防ぎようもない。

ただ、自分の思うように生きる為には多少の度量と度胸も必要なのだと、今更ながら意味もなく実感をしてしまうのだ。

いくつかの経験といくつかの観測を元に導き出したこの回答は恐らく今の自分にとって、これからの自分にとって必要なものなのだろう。

偶にはオタクコンテンツについて。

最近、仕事を追いかけたり、追っかけられたりばかりでオタクしてない。

出来てない。

仕事終わって、疲れて家に帰って、半額シールの張られたスーパーの半額弁当と総菜を酒飲みながら食べつつ、タラレバ娘の二週目を見ながら、「うわー俺、全く恋愛してねえ。。。」

とか謎の共感しつつ、そのまま酔いつぶれて寝ている。

 

レベルの上げ方は何となくわかった、けれども生活のバランスがうまくとれていないのだろう。

生活のバランスもそうだが、全体のバランスもよろしくない。

仕事を頼りにして、全体的に総合力を上げられているのはいいが、上がるスピードが速すぎて全体的にコントロールが取れていない。

ハードウェアを凄まじいスピードで買い替えているのに、各種ソフトウェアのアップグレードが追い付いていない感覚。

仕事周辺のソフトウェアのアップグレードはしていかないと文字通りお仕事にならないので優先的にアップグレードしているが、そこから離れる程、プライベート面に近づけば近づくほど管理が追い付いてない。

例えば、人間関係面、お部屋のきちゃなさ、オタク情報の更新、その辺が全然出来ていない。

仕事関係のソフトウェアはプライベート使ってでも更新しないと走る事に付いていく事が出来ない、精神状態の整理整頓と再構築も同様だった。

モチベの上昇は、ウォーキングなりヒトカラなりで底上げが可能なので時間さえ投資してやれば何とかなる。

オタク方面に時間割いてる余裕がない。

 

人生の優先順度的な物がある。

その辺を少し明確化してやる必要がそろそろ出てきた。

適当に並べてみる。

 

仕事、成長、余裕作り、年齢的に恋愛、人間関係、趣味の時間(ウォーキング、ヒトカラ、漫画、エロゲ、音楽、その他)、お部屋の掃除、オタクコンテンツ、ダイエット。

 

優先順度の高い順に並べてみたが、やる事多すぎんな……。

同時に出来ることは限られているし、時間も有限、それでいて、こういった形にまとめる事で思考の整理につながる、マインドマップも併用して。

優先順度つけて、PDCA回して、適度に休憩取りつつ、情報整理して、心も整理して、重要度が低いものはあきらめる必要があるのかもしれない。

何かをするには時間が大切。

仕事も、プライベートも。

 

一時的な楽しさ、それを追いかけ続けるのも大切だけれども、必要な時間を見越して行動する必要があるのかもしれない。

 

かもしれない、ではなく、必要だ。

 

きっとね。

 

時間的な配分の関係で今年の最初の四分の一は状況に流されるだけだった。

流れは一切作れなかった。

仕事でも、お休みも。

多分、自分のスケジュール管理を一切やっていなかったせいだろう。

時間は作るもの、確保するもの。

何の時間だってそれが必要なんだろう。

必要だからこのように書き出して頭の中の整理を行っているのだから、自分の為に。

後、体調管理はしっかり行っておかないと、全体のキャパが落ちる原因になる。

時間は有限なのだから、能力の低下は出来る限り避けた方がいい、たとえ期間限定だとしても。

 

あ、気が付いたらタイトルと全く関係ないこと書いていた。

まあいいか、興味の範囲が広くなってくると、投資する時間が重要になってくる。

多分、無駄にゲームして時間潰すような余裕も、必要なのだろうか……

必要なんだろうね。

何もしないでボーっと時間を過ごす時間がとても素敵な時間であることと同様に。

 

何か本当にごちゃごちゃしてるなあ。

文章も、頭の中も。

まあ、そんなものなのかなあ。

気分的に昨日の続き、ATフィールドの形成と、自己開示、及びストレスによる自己保守機能について。

ATフィールドである。

エヴァンゲリオンの有名な奴である。

ATフィールドは現実世界でも展開しているものだと俺は考えている。

程度の差はあるけれども誰しもが。

誰に何を伝えよう、伝えられた誰かはなんて思うだろう。

人間関係という奴は何だかんだでそれの繰り返しなのだから。

オタクだろうが、サブカルだろうが、リア充だろうが、シモキタだろうが、シブヤだろうが基本的な所は何も変わらない。

 

だって人間だもの。

 

そういう事になる。

 

何が重要で何が大事で、何が好きで何に興味があって、そのやんわりとしたフィーリングで人間という生き物は構成されていると思う。

感性の違い。

主義主張の違い。

 

ATフィールドが強めに展開している人って、大抵が誰かに否定され続けたか、強く怒られ続けられた、そんな人なんだと思います。

心の対人障壁が強めな人って、大抵自信の余り無い人たちばかりだから。

何かに挑戦して成功して、そうして褒めてもらって自信というものは成長していきます。

自信を手に入れる前に、何かに折られて、現実と戦えなくなった人々。

もしくは、楽しい何かを見つけ出す事が出来なくて、部屋の中に籠る事しかできなかった人々。

さらに言うと、自己主張強めでオラついてて派手な格好でその辺歩いてる人々もある意味だと同類項なのかなあと最近になって思うようになった。

つまるところ、誰もがある意味見栄を張る事はあると思いますが、ある程度自分に自信があると威嚇なんてしようとすら思いませんが、自信が無い場合はある程度見た目で補ってやる必要があるのかなあと何となく、警戒色ってあるじゃないですか、そういう意味で。

ヤンキーやギャルとかそういう生き物に実際に接してみると、見た目と違って、実は優しかったとか、そう意味なのかなあと思う。

 

会話テクの一つとして自己開示がどうたらこうたらというものがある。

オタク的にいうのであればオタ知識によるマウンティング?知識自慢?

そう言う知識を共通項として持っていると非常に面白い時間が過ぎていくが、持っていないとただの自慢話になってしまうアレである。

簡単な所から難しい所に踏み込んでいく。

天気、仕事、食事、ドラマ、旅行、音楽、漫画、アニメ、ゲーム、エロゲ

話しやすい準に適当に並べてみたがこんなもんだろうか。

浅い所から深い所に。

お互いの腹の中を探りつつ、適当な所で握手をする。

そんな感じの気持ちがいいような気持ちが悪いような、そんな時間。

あの人はどんな人なんだろうという単純な興味。

何が趣味で、休日は何をしていて、食べ物はどんなものが好きで、好きなお酒は何で、どんな本を読んで、誰と仲が良くて。

そんな感じの単純な興味。

 

けれどもあまりに強いストレスが加わる環境に晒され続けると、そんな感じの単純な興味の枠が狭まっていき、視野と視点が非常に狭くなっていく。

単純に書くと、自分があまりにも大切になってくるから、他人なんかどうでもよくなってくるのだ。

たとえ相手が女の子だとしても、興味ないと断定する。

さらに書くと、女の子もこちらに何か興味持たないだろう、と断定してしまう。

そんなこんなで何度か逃がしちゃったなチクショー!!!

と今になって愚痴ってみる。。。

まあ、ごく普通の一般ピープルさん達はそれほど強いストレス下に大抵の場合晒されていないので、大抵の人は思考がそこまで複雑化していないのです。

だって、ねえ、ストレスないと、愚痴る必要もないし、何かに怒る必要もないのです。適当にテレビ見て、飼ってる猫とか、友達のバカとか、先輩の愚痴とか、私の方が可愛いとか、あいつ性格悪くない?とか、ひたすらそういう話をしていれば退屈しないで済むのです。

マイナスな感情って何かに対する不満から発生するものだから、お金とか、人間関係とか、愛とか、自由とか、幸せとか。

満ち足りていれば、自分が自分に満足だよって言ってあげれれば、マイナスな感情なんて発生しないのです。

 

その為の言葉なんだから。

使わないと損だと思います。

 

 

 

本日は三本立てでお送りいたしました。

ではでは。

感覚的な問題、気分的なそれ。

だいぶ毒が抜けてきたんだと思う。

この何かよくわからないジャンルの俺のブログを始めてから約三年の月日が経った。

最初の頃は何かよくわからない内容の日記のような、雑記の様なよくわからないものを上げていたが、その傾向は三年たった今現在も全く変わらず、とりあえずこの方向性を変えるつもりもない。

多分、このブログは俺の心の中を整理するために書き始めたものだからだろう。

 

俺を構成する要素の一つとして『他人にどう思われても構わない』という項目が存在する。

 

普通の人だと、他人にどう思われているかを結構気にして生きていると思うのだが、俺の場合はそうではない。最近は多少気を使うようにはなったが、根本的には変わらない。

 

何故、そうなったのか?

 

世の中を見回してみると、他人にどう思われてもいいという人間は結構居る。

所謂、社会の底辺層の方々だ。

上の方に行けば行く程、他人にどう思われるかを結構重要視して生きている傾向が強い。それは言ってしまえば余裕があるからなのだろう。

生きる事に、命を継続させる事に余裕がある、精神的なストレスも、肉体的なストレスも存在せず、金銭的にも余裕がある。

そうすると、他の人間との比較、どちらが上か、どちらが下か、そういった事に興味がわいてくるのだろう。

 

だが逆に、社会の底辺層の方々はどうだろうか。

生きる事に、命を継続させる事に余裕がない、精神的なストレスも、肉体的なストレスも存在し、金銭的にも余裕がない。

そうすると、他人とかどうでも良くなって、自分の生存に全力を賭けるしかなくなってくる。

まず、衣食住の確保。

衣はボロでも命には支障が出ない。

飽食の時代であるから、質を求めなければゴミ箱を漁れば期限切れのコンビニ弁当があるかもしれない。

住む場所は、段ボールで作ればいい。

そういう事になってくる。

そこまですれば生きていくには十分なのだ。

 

けれどもそこまで落ちる前にはある程度の段階が存在する。

ざっくりと書くとするならそりゃあもう、言わずもがなのプライドという奴だ。

どの段階までプライド、自分の誇りを捨て去る事が出来るか。

様々なストレスによってストレス過多な状態になってくると、そこから逃れるために肉体的に、精神的に避難を開始する。

肉体的な痛みだとそれを避けようとする。精神的な痛みも、それを避けようとする。

そうして、それすらも、逃げる事、避ける事すら出来なくなると。

諦めるしかなくなる。

何処かのワンちゃんの実験結果と同じ事が人間にも起こりうるのだ。

いや、起こるのだ。そうしなければ生きていけないから。

 

諦めてしまうと、定期的に襲い掛かる痛みに耐えなければならなくなるから、次第に徐々に、全てのものがどうでも良くなってくる。

そうして、他の方法で自分を満足させるしか、なくなる。

例えば、飽食で、酒で、女で、ギャンブルで。

 

どこまで、自分のプライドを高い位置で保てるか。

ある意味、プライドは生存欲求と反する存在なのだろう。

人間は大抵の場合、泥水を啜ってでも生き抜くようにできている。

けれどもそれは自分から望んで飲んでいるわけじゃない。

そうせざる負えないから嫌々飲んでいるんだ。

そうして飲み続けているうちに、味に慣れてしまう。

ああ、これそんなに不味くないや。

そう思い始めるとプライドが一段階低くなる。

妥協、してしまうのだ。

『これでいいか』

そう思うと思ってしまうと、プライドの階段が一段低くなってしまう。

そうして妥協を続けていると、耐え続けていると、慣れてしまうのだろう。

何処かが壊れると書いてもいい。

そうしてその壊れた部分は修復に時間がかかる。

というより時間をかけないと治せない。

元に戻すとはそういう事だ。

 

人間誰しも恥は掻きたくない、けれども掻き慣れてくると、恥という概念が崩壊してしまう。

それもプライドの階段が一段下がると表現しようと思えばできる。

けれどもある程度の恥をかいて置かないと、失敗経験が積まれないから、そういった意味では度胸が無いと表現できるかもしれない。

色々と難しいもので、色々と難しいのだ。

 

人間って難しいねえ。